《 京都通になれる雑学 》
第 1 章
古都・京都の歴史を知る町歩き
- Kyoto 18 -
饅頭屋が守り続ける
明智光秀の首塚
主君を討った明智光秀は尽きず、
その首塚も話の種には面白い。
その上、
首塚の面倒を見ているのが、
饅頭屋さんと聞けば、興味が沸いてくるはず!
■ 明智光秀は祠に祀られ、
白川の安住の地で
眠っている。
東山三条、白川橋から南へ、
柳が影を落とす白川沿いに4分程歩くと、
「餅寅」という饅頭屋があります。
その店の横に人家が建ち並ぶ細い路地があり、
その路地に入ってすぐ左手に
瓦屋根の小さな祠と五輪塔が現れます。
そうです!
これが「光秀の首塚」です。
なぜ?
こんなところに!
1582(天正10)年6月2日早暁、
明智光秀は、本能寺に織田信長を襲撃した。
「本能寺の変」である。
この後、
6月13日に勃発した山崎の合戦で
光秀は羽柴秀吉軍に敗れ、
七騎ほどのわずかな人数で居城がある坂本に落ち延びる。
その途中、
山科小栗栖という場所で農民に竹槍で突かれ、
深傷を負い亡くなったというのが
通説である。
この時、
家臣の1人である溝尾勝兵衛なる人物が、
光秀の頸を斬って、馬の鞍を覆う布に包み、
知恩院門前まで辿り着く。
勝兵衛は、夜が明けると
溝に首を隠し、現在の場所に葬ったという。
供養の五輪塔が建てられたのは
ずっとあとの時代のことだという。
■ 人気上昇中!
「餅寅」の光秀饅頭を、
お参り後に2つ
五輪塔は明治時代にはあったらしいが、
祠と同様にいつ頃建てられたものか
判然としていない。
ただ、
光秀の首塚を指し示す石柱(道標)があり、
そこに
1845(弘化2)年の銘があることから、
首塚はそれより前から存在したのは確かだろう。
小さな祠の横には、
明智光秀役を演じた市川雷蔵という役者が、
1903(明治36)年に墓石を建て、
光秀の戒名「長存寺殿明窓玄智大禅定門」が
刻まれてた。
祠の中は、
薄暗くてよく分からないのだが、
厨子には光秀の木像が安置されている。
木像は8月23日前後の「地蔵盆」に
公開されています。
首塚の町内会で守っていたらしいが、
守る人が、一人抜け二人抜け、
戦後になり、
「餅寅」の当主が代々守り続けています。
祠の前では閑に手を合わせる人、
デジカメに収める人を見かける。
遠方からの観光客も増えているという。
歴史好きだけではなく、
ちょっとした観光スポットになりつつあるという。
光秀自身も
首を傾げているかもしれませんね。
「餅寅」では、
2種類の光秀饅頭を作っています。
抹茶の生地に京都らしい白味噌あんを詰めたもの
と
黒糖の生地につぶあんが入ったもの
の
2種類。
饅頭の上部には、
明智家の家紋・桔梗紋の焼印が押してあります。
1個¥130で購入できます。
白川のせせらぎを聞きながら、
光秀饅頭を味わうのがオススメです。
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★ 龍虎 俊輔 ★
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