《 京都通になれる雑学 》
第 1 章
古都・京都の歴史を知る町歩き
- Kyoto 13 -
「幕末の事件」を辿って河原町を歩く
新撰組が斬り込んだ池田屋事件、
坂本龍馬暗殺の近江屋事件、
勤王志士の隠れ家など。
現在の河原町の繁華街に、
殺伐とした幕末の史跡が点在しています。
■ 志士たちの密談中を襲った
惨殺劇
「池田屋事件」
旅籠・池田屋は、
三条大橋から西へ、三条小橋のたもとにありました。
1864(元治元)年6月5日、
祇園祭宵宮と重なった日、
普段より人は多かったかもしれない。
木造2階建ての池田屋では、
勤王の志士たちが集結し、密に話し合いをしていた。
そんな中、騒動が起きたのは、
夜の10時過ぎだった。
20数人の志士たちは
逃げる者、斬られて息絶える者がいた。
死者は7人!
ところが、
彼らが埋葬された三縁寺が岩倉に移転する際、
住職が墓地を掘ってみると
頭蓋骨が大量に出土したのある。
その数、なんと!
16。
三条通の一筋南側、東西に走る龍馬通に
創作工芸「酢屋」という店があります。
その店前には
「坂本龍馬寓居之址」と
書かれた石碑が立っています。
当時、龍馬はココに潜んでいたのが判る。
1867(慶応3)年10月、
四条寄りの「近江屋」に移った龍馬。
この移転が最期になるとは・・・
龍馬自身も、
近江屋が自分の最期の場所になろうとは・・・
思っていなかったであろう。
■ 勤王の隠れ家は、
現在は和食の食処!
井口新助なる人物が営んでいた近江屋は、
醤油屋でした。
坂本龍馬は、1867年11月15日、
この店の2階で同郷の友・中岡慎太郎と暖をとっていた。
そこに、惨劇が起きてしまった!
突然、現れた刺客に、
龍馬は不意をつかれて額を斬られ、絶命。
中岡慎太郎も斬られ、絶命。
犯行の真相は、
解明されていません。
京都見廻組犯行説、中岡慎太郎犯行説、
薩摩藩士犯行説など、
諸説、語られていますが、
真相は藪の中!
坂本龍馬が絶命した11月15日は、
龍馬自身の誕生日でもあった。
実は・・・
近江屋と河原町通を隔てて、
間近に土佐藩邸があった。
髙瀬川沿いには、土佐藩邸跡の石碑が立っています。
四条河原町から北へ上がり、
佃煮と甘味の「永楽屋」の先を東入る路地に
「志る幸」という作家・池波正太郎が贔屓にしていた
食事処があります。
賀茂茄子、生ゆば、お刺身などの一品料理、
白味噌汁、やかくご飯が実に美味しい。
夜は高いが、
昼は2500円~3000円程度の予算で
堪能できます。
この「志る幸」は、
勤王の志士である古高俊太郎なる人物が
薪炭商を営みながら潜んでいた場所であった。
しかし、
古高は、新撰組に捕えられ、
壬生で拷問にかけられた。
残酷な拷問に耐え切れなかった古高は、
勤王の志士たちの動静を自白してしまったのだ。
この自白が
池田屋事件に繋がってしまったのである。
龍馬の足跡を辿りながら、
京都の町を歩くのも楽しいですよ!
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★ 龍虎 俊輔 ★
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