最近峰子は、自分を守る行動が必要だと、強く感じていた。
身の危険を感じる異変が起き始めたのは、先月辺りからだった。
勤務中に妙な気配を感じて顔を上げると、坂本と目が合ったり、ゾワゾワして振り返ると、すぐ真後ろに坂本がいて、驚いて心臓が冷えたりする。
石鹸で手を洗っていると、
「僕にも石鹼をくれ。」
と言って、峰子の掌ごと石鹸を持って行こうとする。
坂本は外科医なので、普段は外来か医局か4階の外科病棟に居る。
だから、3階の内科病棟には、特別な用事がない限り来ないはずなのだが、最近では不自然な程よく見かけるようになった。
峰子が最も困っていて嫌なのは、準夜勤を終えて帰る時だ。
病院の通用口から出ると、建物の裏手の道路に出る。
そこは人気のない川沿いの暗い道だった。
なので峰子は、いつも大声で歌いながら早歩きで駅へと向かうのだが、その道沿いに白いオペルを停めて坂本が待っているのだ。
「長田君、僕のオペルームで送っていくから乗りなさい。」
「いえいえ、お気持ちだけで。電車が行ってしまうので失礼します。」
峰子は毎回、何とか断り走って駅に向かうのだが、坂本が発している空気感が気味悪かった。
オペルをオペルームと呼ぶ坂本に対して、峰子の中でも警戒警報が高らかに鳴っていたのだ。
峰子は防犯グッズを鞄の中に忍ばせ、いつでもすぐ使えるようにした。
そして先週は、市の広報誌に載っていた、警察主催の護身術の講習会に参加した。
自宅の最寄り駅でもナンパ車はいるし、過去、付きまとってくる奴等もいた。
でも、それ等とは比べ物にならない、何とも言えない気持ち悪さがあったのだ。
だが、それを誰かに相談しても、モテ自慢だと思われたり、ウザがられたりする事が多かった。
本気で恐怖を感じているのに、その怖さが伝わらないのだ。
この時代では、好きになった人の後を付けて家を突き止める付きまとい行為や、個人の情報を調べる行為等は、恋の延長のように軽く捉えられていた。
欧米では付きまとうというストーキング行為をする人の事をストーカーと呼び、社会問題になり始めていた。
ストーカーによる深刻な殺人事件が、何件か起きていたからだ。
その点で、この時の峰子はとてもラッキーだった。
警察官である石本たちが、山本の柔道家としての感性を重要視して、峰子の話を茶化さず、真面目に聞いてくれたのだから。