こんにちは
今日はアップがこれで2編目です。
文科省が、国公立大学の入試基準を「知識重視」から「人物重視」に切り替えて行く事を検討・・・なのだそうです。
入試の一次では従来どおりの学力試験、ところが二次は「面接」や論文など人物を重視して決める事を検討中なのだそうです。
これには賛否両論が沸騰しているようです。
例えば米国のハーバード大は、「人物重視」を前から実施している・・・とか。
早い話が、人物重視というけれど、コミュニケーション能力を大学入試の段階で取り入れてしまった方が、社会や国家のためにはプラスが大きい、ということなのでしょう。
でもそれは、私は間違いなのだろうな・・・と思うのです。
そういう早い段階で、個人の能力の「黒白」を国家が決めてしまうような制度は間違いなのだと思うのです。
なぜなら「人物重視」といっておいて「国公立大学を不合格」になったら、その人は「人物不適」の烙印を押されてしまう事に等しいわけだし。
そんなことされて、あとの一生をどうやって生きて行けというのでしょうね。
いやどうしてもそうしたいのなら、一部の学部や学科での実施ならまだともかく、国公立大学全体をそうしてしまうのは、やはり間違いなのだと思うのです。
それはなぜかというと、「若い人」の成長というものは、18才の段階ではまだまだ分からないから。
私は今でこそビジネスの最前線で書いたり喋ったりを毎日駆使しておりますが、それはどう考えても25~30才くらい以降に芽生えたスキルのようなもので、それまではまったくといっていいくらいそういう事ができなかったのです。
私の18才の時なんて寡黙で無口で、大人とまともに話せなかったような記憶があります。
だから18才くらいは、早熟・早生や晩生(おくて)などが混在しているのだろうし、その辺りの段階で「人生の分岐点」になってしまうような選別を国がするというのはやはり間違いなのでしょう。
話し上手とコミュニケーション能力とは異なる性質のものだし、社会に出てから熟成が進んで話せるようになる人も無数にいるわけだし、それを大学入試段階で「判別してしまおう」というのは、間違いなのです。
話や会話の能力というものは「量」ではなく「質」なのだとも思います。
しゃべりの上手な人と「人物重視」とは関係のない事だし、大人とも子供ともつかない18才くらいで一体何がわかるというのでしょうね。
ちなみに私の成長期はかなりの「晩生」のようで、多くの友人が中学生時代に最も身長が伸びる中で、私は16~18才くらいがもっとも身長が伸びたほど遅かったのです。
もうとんでもない個人差がそこには有るのでしょうね。
私の18才段階での「人物重視」という名の「入学試験」が過去からあったのだと仮定したら、しゃべれなかった当時の私では、そういう「入試」に受かる事は難しかったような気がするのですが、今となっては私は社会生活の「コミュニケーション」において不自由する事は何もありません。
だから18才の時の「能力」なんて、あてにはならないのだと思います。
国家が人を育てる・・・というのなら、こういう「改変」は、まさしく差別さえ生みだす「改悪」になるのでしょうね。