『ウーマン・イン・ホワイト』2度目の観劇。CDを聴いていると胸がそわそわと、ぎゅっとして仕方がなく、もう1度生で観ねばとなったわけです。


ロイドウェバー氏のミュージカルの特徴かもしれませんが、曲自体のリフレインと旋律のリフレインが私の聴覚部分の感情をくるくるしばりつけてしまった感じです。メロディーラインに耳と胸が丸ごと締め付けられるようです。そしてこの苦しさは、ヒロインであるマリアンの切なさとかぶるのかもしれません。


さて、落ち着いてみると、タイトルロールである「白衣の女」のアン・キャスリック(和音美桜)の哀れさを通して、ローラ(大和田美帆)の悲劇に心が痛みました。これは私がマリアン(笹本玲奈)の気持ちを思った時に、感じる痛みとは全く違う悲しさです。


白衣の女たちは、時代のせいもあるかもしれないけれども、生来の女性の弱さを狙い撃ちされて不幸な目に遭います。結婚という慣習を義務として捉える世間(これにはマリアンさえ含まれていました)や、財産や、ただ女であること(これはアンの場合)という、自分が生来持っている内面の資質以外が原因で、不幸を被るのです。


ローラは消極的でかよわい女性でしたが、真実を見る目だけは誰よりも鋭く持っていたということです。ウォルター(田代万里生)を信じることのできる人だと本能で分かったわけですから。そしてそれは正しかった。冒頭のアン・キャスリックも同じです。


白衣の女とは、実は、弱いからこそ真実を本能的に察知することのできる女で、だからこそタイトルロールなのかもしれません。ローラの主題歌のようにもなっている、I believe my heart のリフレインが美しいのはローラの気持ちそのものだからかもしれません。曇りのない目こそが信実を映し出すのだと白いドレスの2人を見ていて思いました。


奇しくも「(幽霊ではなく)私はここにいる」と別々の歌中で歌うアンとローラは、透明で本当に美しい存在感を放っていると今日は感じました。彼女たちの資質を感じることができてよかったです。和音美桜さん、すごい透明感で、歌唱力。ヒステリックにならずに歌いこむのは大変な曲のように感じました。

上記のような理由で、今日はウォルターの苦しさも、ちょっとだけ分かりました。でも、もう少し細かく見たかったような気もしました。


マリアンの思いは切ないけれども、世間の一部と化してローラとウォルターを引き離すという行動を見る限り、彼女が本能の叫びに気づかなかったのは事実です。そしてその理由としては、彼女が賢明すぎたこと、勇敢すぎたこと、があげられるのかもしれません。賢明になるということは、世間に溶け込むことを意味し、それは自然の声が聴こえなくなることと結びつくのかもしれない。


ローラを失い(事実ではありませんでしたが)、ロンドンで身ぐるみはがされて、ウォルターの元で悲しみを吐露するマリアンを見て、人は大きなのものを失ってやっと、生身になれるのではないだろうかと思ってしまいました。だから今日のラストシーンのローラは、同じようにかなしみを感じているようには見えても、「白衣の女」たち同様、自然の声に耳を傾けることができるようになって、さらにしなやかになったようにも見えました。


きっと、その後のマリアンの中には、3人で暮らすなどという選択肢はないでしょう。少し微笑みながらすっくとそこにいるマリアンを見るのは苦しいけれども、凛としていてきれいで、彼女の人生が今後光り満ちているような希望を感じることができました。

笹本さんのすごいところは、何歳にでも見えるところかもしれません。まだお若いのに、どの役を見ても全く違う人に見えるし、いくつにも見えます。マリアンになりきっていて全く違和感がないのがすばらしい。


今日は、舞台装置でホリゾントぎりぎりに置かれている大木が気になりました。1幕目は裸、2幕目は白い花が咲き誇っていました。6月直前に咲き誇る白い花って何かな?私のイメージだと、イギリスの田舎町だとりんごの花かな?などと思いました。


あんなに大きな樹にりんごがなったらすごいだろうな~と思いながら見ていました。きっと1人で佇むマリアンにもりんごの花の香りは届いているのではないかと思うと、彼女の痛みがちょっとは軽くなるだるのではないだろうか・・・と、こちらまで救われた気がしました。


そういえば、前回ブログでパーシュバル卿役をパク・ヨンハと記述してしまいましたが、パク・トンハ氏の間違いですね。だいたいが、パク・ヨンハって、冬ソナのヨン様の恋敵だったし、私も大好きなドラマ『オンエア』の主人公・・・結構好きなんですけど。

韓流は(に限らず)、どうしても名前と顔が覚えられず、ヨンハ氏・トンハ氏の両ファンの方失礼いたしました。


それにしても、もう1度くらい観たいかも。ロイドウェバーはやっぱり癖になるなぁ。