「同じ事柄も解釈次第で変わる」「○○が半分しかないと見るか半分もあると見るか」といった具合の世間一般でもおなじみの概念であり、本来はこの程度で充分なお話です。
これがスピリチュアルの面から説かれ出すと話が違って来ます。
この概念は、かの宇宙存在バシャールからのメッセージによるものがその初めでしょう。
バシャールは毀誉褒貶、様々に言われていますが望ましい現実を創るといった面では頷ける事も説いていたとは思います。
とは言え、現実創造といったレベルから万物は中立を説き出すと無理が生じ始める気がします。
この世界の自他内外の様々な事象は、望ましい方になるのと、そうでない方になるのではどちらが困難でしょうか?
大怪我を負うのとそこから回復するのと、
心的トラウマを負うのとそこから回復するのと、財産を築くのとそれを失うのと、
人々から信頼を得るのとそれを失うのとでは?
きりが無いから止めますが究極的には一切万物は中立であっても、全ては人が意味付けしているのだとしても、万物の事象全て望ましい方になるのはその反対より、ずっと困難であるのは厳然としています。
バシャールは言うでしょう。人類の信念がそうした現実を創り出しているのだと。
しかし、制限的な信念に染まるのとそこから脱却するのでは困難なのはやはり後者です。
つまるところ、地球人類はこうした「制限の体験を選んでしているのだ」とお茶を濁しておしまいでしょう。
バシャールに限らず宇宙存在らのご高説はそれが本質だと思います。
それはさておいて、この「全ては中立」の思想はそれを受け入れた数多くの人々が過酷な現実を必死にそう思い込もうとする、無残で悲痛な我慢大会を生み出しているのではないでしょうか?
記事を読んで下さっている方の中にもこの我慢大会に陥り、あえいでいる人もいるのではないでしょうか?