夢の浮橋~夢と現世の狭間~

夢の浮橋~夢と現世の狭間~

気の向くままに書いているので、時と共に、主に書いているテーマが変わります。

更新休止中。
小説はpixivにて一部更新しています。

https://www.pixiv.net/users/5742786

アメンバー記事だったものも一部ですがこちらには出ていますので、よかったら


猫猫が瑞月の妃となり、事情を知る皇太后や主上、離宮にいるという阿多からも祝いの品が部屋を一つ潰す程贈り物が届いた。
この事情を知るのは、瑞月に近い人間であり主に皇族と言われる高貴なやんごとなき方々だ。何故、面倒なことするのかといえば、それが瑞月たっての願いだったからで。
早く公表しろ、とうるさく言ってくる周囲の言葉を、瑞月は今の所、聞く気はないようだった。
猫猫は、少々疑問はあったものの、それに従う。
戸籍上は猫猫は瑞月の妃であることには変わらず、この見目麗しい皇弟の妃が鶏がらのような華のない猫猫だと知れれば、猫猫もただでは済まない気がする。今のままの方が猫猫にとっても平和であろう。
元々、瑞月の宮に住んでいたのもあり、派手に人の移動が一時的にあっても、皇弟の宮だ、公務の一部だとさほど騒がれるわけではない。
新たな人の出入りがないため、妃を娶ったと、周りが気づくのは至難の技とも言える。変わったことと言えば、猫猫が皇弟付きの官女になり、皇弟の補佐にお付の武官と宮の外出てゆくようになっただけだ。
猫猫の試験結果は首席で皇弟の官女には申し分ない。
瑞月が言っていたのもあながち外れではなく、実際に、猫猫に正面きって突っかかってくる官女は半分以下になった。


高順と後宮にでていた猫猫が宮には戻ると、瑞月は机上の書類と相変わらず格闘していた。
頑張ったのか、山積みの書類は半分ほどに減っていた。床に散る書類も少なくはない。
「戻りました」
猫猫は、翡翠宮から分けてもらったおやつを一つ、瑞月の前に出すと、瑞月は嬉しそうにそれを受け取る。筆を置くと、おやつの封を開けながら猫猫を見てくる。
「どうだった?」
瑞月の口調は硬いが、表情ははっきり言って緩んている。それはそれで、違和感しか感じない。
高順はもはや、それを諦めたのが、大概のことがない限りは注意しなくなった。仕事放棄するのは辞めてほしいと、猫猫は思う。
「問題はありません。普段通りの後宮でしたよ」
瑞月はおやつの煎餅を食べ終わり、側にある器の中のお茶を飲んでいた。
「悪いな。代わりに行かせて」
瑞月は申し訳なさそうに、猫猫を見ていた。
後宮の案件も内容によっては壬氏宛に未だにやってくる。
瑞月は皇帝の血縁であり、後宮には入るのは問題はない。今でも後宮管理官という肩書は持っているが、猫猫が官女になってからは、瑞月は後宮には入らなくなった。机上仕事に専念している。何故、そうなったのか詳細は猫猫は知らない。何かあるのだろうくらいの感覚で、猫猫は瑞月の代理で後宮に行くのを引き受けていた。瑞月の前にある溜まった書類見ていたら、事情の多少わかる自分が行くことで、瑞月の仕事が減るのならばとも思うのは確かである。
「いえ。見てくるだけなら私にもできますし。こちらの方が大変でしょう」
「助かる」
机に疲れた様子で突っ伏す瑞月を、猫猫は冷めた視線を送る。
「昨日もろくに寝てないんですからね。疲れもするでしょうね」
むっとしたように、瑞月は猫猫を見てくる。
「寝てないのはお前も変わらないだろ」
「玉葉さまの言う事が今なら分かる気がします」
「どういう意味だ」
「別に……」
猫猫は、意味ありげに瑞月を一瞥する。
朝方まで血気盛んな目の前の夫に付き合わされほとんど眠れず、朝は普段通りに起きて変わらない官女としての公務を今まで行っていた。その、眠けに苛ついて軽く仕返しをしたかっただけと言うのは猫猫だけの秘密である。
眠くなるから何も食べなかったのに、翡翠宮ではおやつ時、猫猫は運悪く[[rb:桜花 > インファ]]に捕まってしまった。おかげでふとした瞬間にうとうととしていまい仕事が進まない悪循環に陥っている。
こっちだって仕事している。
この男は加減というものを知らない。
大変迷惑である。猫猫は、水蓮の手前瑞月を作った普段通りの顔の奥で瑞月を睨み気味に視線を送る。
「……………」
瑞月はそれを感じたか、すねたように猫猫を無言で見てくる。
執務室に、水蓮が瑞月用のお茶とおやつを持って入って来る。
「まあまあ、若いっていいわねぇ」
「……………」
少々バツが悪そうにそっぽを向く瑞月と。
(若い…ねぇ……)
変わらず表情のかわらない猫猫と。
新婚夫婦の反応は互いに正反対だった。
水蓮にはなかなか、かわいい反応をする瑞月を猫猫は表情なく見ている。
今日の瑞月は、ずいぶんと仕事中だというのに表情豊かだ。まあ、瑞月らしいと言えばらしいのだが。
「猫猫。あなたの分も奥にあるから来てちょうだい」 
水蓮は瑞月と高順の分を高順に盆ごと託し、猫猫を見てくる。
猫猫は、待ってましたとばかりに、言われるがままに水蓮と一緒に執務室を出てゆく。
助かった。派手な喧嘩にならなくて済みそうだ。
翡翠宮でおやつを桜花に食べさせられたから猫猫としてはもういらないのだが、水蓮にこの手は利かないのがわかっていたからなのもあった。翡翠宮の侍女達といい水蓮といい何かと言えば猫猫に食べさせようとしている。


猫猫が瑞月の妃となっても、普段通りなのは、猫猫が頼んだからだ。急に、偉くなれと言われても猫猫には出来ない。
台所の隣の部屋の卓子に座った猫猫の前に水蓮は蒸かしたての一口大の饅頭を置く。白磁の茶器には異国渡来の赤いお茶と檸檬と蜂蜜を乗せた盆を卓上に置くと、水蓮は二つの器にお茶を注ぐ。瑞月と同じもの出してくれるらしい。
「お茶は好きな物を足してね。たくさん召し上がれ」
「ありがとうございます」
水蓮も猫猫の前に座ると、一緒に食べ始める。
目の前の水蓮は孫に接するかのように猫猫に構って来る時があり、今がそうだ。
猫猫には純粋にそれが嬉しかった。
蒸籠から出したすぐの饅頭は甘く、猫猫が食べた饅頭は口の中でほろほろに崩れてゆく。
美味しい。猫猫の頬が緩んでゆくのがわかる。
さすがだなぁと、猫猫は水蓮をちらりと伺う。
「どう?皮の粉の割合変えてみたんだけど」
「おいしいです」
「よかったわ。気に入ってもらえて」
猫猫が二つ目の饅頭を割って食べる。口の中で崩れる皮と甘く広がる餡がなんとも言えない。これならいくらでも食べれそうである。
「あなたは誂いがいがないわね」
さっきの事だと猫猫は思う。確かに、瑞月との反応は見事に正反対だった。苦笑気味に猫猫が笑う。
「今更…では…?私には壬氏さまの反応の方がわかりません」
猫猫は、お茶に蜂蜜をたっぷり足すと一口飲む。蜂蜜なんて贅沢だなぁ、と思いつつ。
「猫猫は大人なのね」
「ただ、冷めているだけだと」
「貴女が来てくれてよかった」
「……………」
水蓮は視線を遠くに投げ、昔を思い出したように語りだす。
「背伸びして、いつも辛そうで。私は瑞月さまを見ていられなかった。貴女が来て色んな表情するようになって。やっと年相応になられて。私は嬉しいわ。猫猫のおかげね」
水蓮の言葉は純粋に嬉しい。
だが、さっきの瑞月は年齢相応というよりは、猫にはにとっては幼い印象の方が強い。
「私は何も」
「貴女のおかげよ」
「だといいですけど、私も笑っていてほしいです」
まあ、瑞月に笑顔でいてほしいのは猫猫の本音である。それは嘘ではなかった。
水蓮は檸檬だけを入れていたお茶を一口含むと、猫猫をじっと見てくる。
ぽつりと、水蓮は、言葉をこぼしてくる。
「三月、子供が出来ないのは、あの薬のせいなのかしらね」
「あの薬?」
突然何を話して来るやら。
猫猫は、水蓮の言葉を待つ。
「ほら、後宮に男性は入れないでしょう。本来の立場上飲まなくても、後宮には入れるのに、けじめだといってね、壬氏さまは男性の気を落とす薬飲んでいたのよ」
猫猫も話には聞いたことはあった。そういう薬があることを。確か、婦人病に使う材料が中身の一部のはずだ。
よく考えれば、後宮に行くために、瑞月が飲んでいても不思議はない。
今、瑞月が後宮に行けないと言うのはやはり、それが原因なのだと、ふと考えるが、違う気もする。飲まなくても、後宮には入れるのだから。
高順は年齢も年齢だからなのだろうな、と猫猫は思う。高順が宦官でないことは、瑞月の立場を思えば否定出来る。
実際、高順には瑞月と同じ歳の子供もいるのは確かだ。
「それを飲んでいたということは、今は飲んでいないのですよね」
「ええ。後宮に行かないのだから必要ないでしょう」
「そうですね」
「五年も飲んでいたからかしらね」
五年前というと齢十四歳ほど。そんな前からとは、猫猫は驚いた。
瑞月は後宮で何がしたかったのだろう。
猫猫はしばらく考え込む。
東宮がいないという話は聞いたことがない。
少し考えれば、皇弟である瑞月が東宮であることは必然であることはわかる。平民だった猫猫には縁がなかった話題というだけで。
ただ、瑞月は宮廷では東宮と呼ばれることはほとんどなく、皇弟と呼ばれることの方が多い。
自身はその裏で後宮に長年宦官として潜り込む。
東宮の地位が、嫌で逃げたとも取れるのだが。
きっと、それだけではないだろう。逃げるだけなら、後宮に行く意味はない。
どちらにしろ、本人に聞いた方が早いのだろうが、本当のこと言うのかは不明だ。
その若さで宦官の真似事、不妊になるという危険性を顧みないのは、よほどの覚悟か、若さ故の行動なのかは本人のみぞ知る。
あの薬は毒のような即効性も持続性ない、薬は時間が経てば抜けるだろう。あくまで予防的な意味の薬だ。完全ではない。だが仮に女性側が孕んでしまったのならば、初期であれば、簡単に流してしまうのは可能なのだから、そちらの方が確実な方法だ。褥番の記録と合わせれば照合はある程度可能だろうし。
「それは時期に薬は抜けると思いますけど。そこまでの持続性はない気がします。それに、子を孕むのは私の[[rb:時期 > タイミング]]が合わないと無理なので、一概に瑞月さまのせいと決めつけるには早いと思います」
そんなの、ある程度の知識として持っている女性は一定数いる。花街だけの情報ではない。
花街で色々見てきた猫猫にはそういう恥じらいはあまり感じなかった。水蓮は、猫猫の年齢以上の冷静さに安堵したようだ。
「それもそうね」
「はい」
「まだ三月でしょう」
「猫猫は優秀な薬屋さんだったのね」
「まだまだですけど。ありがとうございます」
「いつ私は瑞月さまの吾子をこの手に抱けるのかしらね。待っているのに」
水蓮は水蓮なりに瑞月の事が心配なのだろう。
その若さで、あのような事をしていた。本来は全うな皇族の男子のする事ではない。
「………はは……そうですね」
結局、そうなるのだ。
間接的に変な、[[rb:圧力 > プレッシャー]]を猫猫にかけないでほしいものである。
猫猫は、照れるという感情はなくやはり冷めた目で乾いた笑みを浮かべただけだった。


ただ、それは猫猫を孕んだ女と同じな気がして、猫猫の頬が僅かに引き攣る。
嫌な記憶は簡単には消えてくれないようだ。
いや、今の猫猫は、瑞月の妃だ、無計画に子を孕んだあの女とは違う。
猫猫は、自分に必要以上に言い聞かせた。
見えない恐怖を打ち消すかのように。


✢✣✢はじめに✣✢✣

現在もPixivに投稿している小説の再掲となります。

バックアップ用に記事を移しています。


下記のURLページは本文と全く同じ内容となります。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21110828


今は朱に染まるの続きがこちらには34話ほどあります。

読んでいただければ幸いです




✢✣✢✣✢✣✣



時期的には、壬氏付きの下女になった先の話になります


壬氏 十九歳
猫猫 十八歳







阿多は後宮を去る際に、飾りの少ない簪を礼だと言って猫猫によこした。男物の簪のような、それでいて、値の張るものだというのはわかる。
簪の意味、聞いてしまった今、複雑な顔で手中の簪を見つめるしか出来なかった。
「口止め料、か?」
阿多の残して言った言葉は、猫猫の中に深く、確信めいた疑問として根付いた。年齢から考えば、それは粗方の特定ができてしまう。厄介なことこの上ない。
壬氏は相当に高貴な血の持ち主なのは言うまでもなく、皇帝に近く、高官というには、それもどこか違う気がする。
あの2人は、血縁のある母と子。
でも、当の本人はこのこと知って………。
あくまでそれは憶測に過ぎない。
止めだ、止め。
また、おやじに怒られてしまう、と猫猫は、頭を振る。うっかり口にしてしまえば猫猫でも死罪になりかねない案件だ。
猫猫は深いふかいため息をつく。


時は流れて。
皇太后の依頼を終え、壬氏の宮に戻って来た。
今はすることもなく自室にいる。もう少ししたら客人が帰るから、猫猫の仕事はそれからだった。
壬氏に会ってから、自分の位では一生会えないはずの高貴な方々に会っている。それは、もう後宮にいる時以上に、実感がありすぎる。皇族だけでなく、武官文官の高官もう何度も見た。
これ以上厄介事に巻き込んでくれるな、と言いたい所だが、猫猫がここにいる以上は無理な気がしていた。大半の厄介事を持って来るのは壬氏で、猫猫も自ら首を突っ込んでゆく事も無きにしもあらず。壬氏だけのせいにするのも、違うという自覚はないわけではない。低い寝台横の卓上の行李の中にはもらった簪と首飾り。
壬氏からもらったのは、鳥の模様に見えなくはない。多分、すごく高い事だけはわかる。市井でよく見るのはもっと軽く、こんな重量感はない。細かな細工は匠職人の証。取り出し、日に透かすと奥にも、何やら模様が刻んである。それが何をさすのかは、猫猫にはわからない。
「猫猫」
戸を叩く音の後、水蓮が入って来る。声で水蓮だと判断した猫猫は、横になっていたが、反射的に上半身を起こす。
「水蓮さま」
水蓮の視線は猫猫の手にある簪にあった。しばらく簪を見ていたが、水蓮は猫猫に視線を移し、部屋に入って来た時の驚きのは顔は消え、穏やかに笑むものに変わっていた。
「どうして猫猫がそれを?」
猫猫が手元の簪を僅かに持ち上げると、水蓮は頷く。
「園遊会で壬氏さまにいただきました」
猫猫は簪をもらった経緯の詳細は省いた。
「あらまあ、そうなの」
水蓮は機嫌良さそうに笑みを浮かべている。その笑みに猫猫は引っ掛かりを覚えつつ、とりあえず僅かに口角を上げて笑むようにする。
「はい」
「園遊会の日、坊ちゃんの頭にあったはずの簪がねなくて」
「…………」
「あの日あげたと言っただけで、誰にあげたとは、私には教えてくれなくて、気になっていたのよ。猫猫あなただったのね」
高順がその場にいたのだが、高順は水蓮には話していないのだろうか。色々と、主の裏でも根回しをしていそうな御仁に見えるのだが。苦労性の壬氏付きの高官さまの思惑なぞ、猫猫にはわかるわけがない。無難に事実のみを返事するに限る。水蓮も悪い人だとは思わないか、どこか腹の底までは読めない人だ。
「左様で………」
そんなこんなでどう反応したら良いのかわからなくなった猫猫は、普段の感情の薄い返事するに至ったのだった。簪も行李にしまう。簪を無くしては壬氏が拗ねるに違いない。妙な所で壬氏は年齢よりも幼い部分が見える所がある。
水蓮は、ここに、来た用事思い出したのか、ぽんと手を叩く。
「皇太后様から猫猫に夕餉のお誘いよ」
「………はい?」
水蓮から渡された文には、皇太后の花印とともに、明後日こちら来るにとの内容が書いてあった。
皇太后。
先帝のくだんは既に解決済みのはずなのに。
「水蓮さま、こちら、私の方が皇太后さまヘ出向くのが筋なのではないのですか?」
「ええ、ここに明後日、御忍びで来られます。そう、忙しくなるの。台所手伝ってくれる」
張り切る水蓮はどこか嬉しそうだ。詳しい説明を猫猫にする気は無いらしい。どうせ、聞けば抱える秘密が増えるだけだ。水蓮相手に聞くだけ無駄だ。
ただ無駄に張り切る水蓮は元気だなあ、と猫猫は他人事のように思う。
「はい」
だが、どこの馬の骨かわからない者が皇太后の宮に入ってゆくのは、確かにおかしな話なのだろう。猫猫も半分は羅の血は入っている。認めたくはないが。だが、それが、壬氏の側にいてもいいという証明になるのは確かであり、僅かだが複雑な気持ち引きずったままに、猫猫は水蓮について行くのだった。
そういえば、水蓮は皇太后の侍女だった事、猫猫はふと思い出した。もしかしたら、その繋がりの関係もあるのかもしれない。
それで少しだけ、猫猫の心の中に蟠る溜飲が下がる気がした。


当日。
水蓮の準備していた衣装に身を包み猫猫は皇太后と、どこか居心地の悪そうな壬氏と卓を囲む。
やはり、壬氏は皇太后よりも阿多に似ている。おっとりとした印象の皇太后の雰囲気は壬氏にはなかった。
猫猫は思わず、二人を見つめていて、猫猫の方を向いた壬氏と視線が合う。疑問符の浮かんだであろう、壬氏に、猫猫は笑って誤魔化す。猫猫も少しづつ食べる。水蓮と猫猫で作った料理だ、毒見は不要だった。皇太后は、水蓮にも一緒に食べるよう言ったが、水蓮はそれをいつものように丁重に断っていた。徹頭徹尾という言葉の似合う人だ。猫猫は尊敬の眼差しを送る。
水蓮と猫猫2人で用意した食事を、皇太后は頬張っていた。表だって見ることのない姿に、猫猫は驚くが、人の顔は多様だと言い聞かせる。意外にも皇太后は話し出すと止まらなようで、それも以外ではある。
壬氏が幼く見えたり、実は私生活はだらしない部分があるのと似たようなものなのだろうか。少し違う気はするが。
「猫猫、本当にありがとう。」
皇太后は猫猫に水晶の飾りをくれた。猫猫は素直にもらう。
「いい娘に出会えてよかったですね」
「ええ」
皇太后と壬氏は仲が悪いわけではなさそうだった。
猫猫はそれにほっとしていた。
皇太后の興味は猫猫に向く。
御忍びなのか髪飾りは1つ、かっちりとした格好ではなく、緩やかな桃色を基調とした衣は、重ねた年齢の割には童顔の面持ちもあってか似合っていた。
「ごめんなさいね。羅門はあなたは養父なのだと先日聞きました。あれは私のせいね。あれだけの技術があるのに、あの人から未来を奪ってしまった」
猫猫は首を横に振る。
「滅相もありません。けれど、養父は、本当に運がなくて、何度も散々な目にあってはいますか、今もそれなりに養父らしく私の側に居てくれています。私にとってはそれだけで充分なので。もったいないお言葉です。きっと、皇太后様を救えてよかったと思っていると思います。そういう人なので」
「優しいのね。あなたは」
穏やかな皇太后の笑みに猫猫も釣られるように笑む。
それまで、静かにしていた壬氏がボソッとつぶやく。
僅かながら、眉が引き攣っているのが、ありありと分かる。また、笑顔なのが一等怖い、貴人だ。
「そんな偉大な養父が薬学の師なのに、どうしたらお前の様な自虐的な事が出来る」
「効果のないものは薬とはいえません。自ら試す事で、分かる事もあるのですよ。壬氏さまはほっといてください。そもそも今言う事ではないのでは」
「私は他にもやり様があるだろう、と言ってるんだ」
「そんなの、実験台にされた鼠がかわいそうです」
「自らの左腕はかわいそうではないのか?」
「加減はしています。死にたくはありませんから。今はそれも出来ないのですから、大分マシなんですけどね。食事中お見せするものではないので、さらしは取りませんが」
「そういうこと言いたいわけではない」
「では、壬氏さまは何が言いたいのです」
「これ以上自分で薬の実験をするな」
「………………」
むっとして猫猫が黙り込む。猫猫向いた先には皇太后と水蓮がいて、皇太后は珍しい物を見るかのように興味津々に傍観を決め込み、水蓮は猫猫を睨むかの様に見ている。水蓮の表情からは「またやったの」という言葉が聞こえてくるようで、猫猫は身震いしてしまった。この敏い、侍女には猫猫の特殊趣味はすっかりバレている。
壬氏は壬氏で、皇太后を見てバツが悪そうに、はっと口を、つぐんでしまう始末で。
「心配しなくても、今更貴方の物を取り上げたりはしませんよ。先日も言いましたが大切なものは隠して置くことも時には必要なのですから。いい加減学習なさい」
「そうですね。御忠告ありがとうございます」
「そんな楽しそうに笑う貴方を見るのはどのくらいぶりかしらね」
「……………」
「…………………?」
置いてきぼりになってしまった猫猫だったが、2人の会話はまるで親子のようだと思ってしまった。
猫猫がふと思った事が、段々と意味を、持った確証になる気がして、猫猫は耳を塞ぎたくなった。失礼に当たるから、出来ないけれど。これ以上は聞きたくない。引き返せなくなってしまうではないか、と逃げ道を探す自分見つけて、猫猫は、作った笑顔が崩れゆく気がしていた。
しばらく、猫猫がであった事件や薬の話をして、はじめの緊張はすっかり解け、時間はあっという間に過ぎてゆく。口調の崩れかけた猫猫の言葉にも皇太后は気にするわけでもなく、水蓮には渋い顔されたため、後は怖いのだが。
「猫猫、楽しかったわ。また、お話聞かせてくださる。」
「はい」
「壬氏のこと頼みますね。水蓮が貴女を推すのがわかるわ」
珍しく静かな壬氏を見つけて、猫猫は穏やかに笑って。
「皇太后さまも素敵な方で。壬氏さまの周りの方々は皆凄い方ばかりですね」
「そうだな。」
返ってくる壬氏からの笑顔は年相応の青年に見えた。


それは突然には降って来た。
壬氏は今日は、一日執務室に籠もり出てこない。昼餉にも出てこなかったのをみると、かなりの多忙なのがうかがえる。なので、執務室の掃除は、机上の書類片付かないと出来ないためもうしばらく先になりそうだ。
「仕方ない、後回しにするか」
先に他の事終わらせてしまおうと廊下の窓の桟の雑巾がけをしていたら高順が、猫猫を呼びに来た。
執務室内は、想像通り、反故の書類が机の周囲には落ちている。後でこれを片付けるのは猫猫の仕事だ。まぁ見慣れた光景ではあるのだが。
整理しながら出来ないのか、大きな子供のようだと、口にはしないが、猫猫は半眼になる。高順は顔がとばかりに、猫猫を見て来て、猫猫は仕方なく、書類に筆を滑らす雇い主を睨むのを止める。
猫猫は足の踏み場のほぼない机の前、失礼ながら、反故にされた書類を踏みつけて、壬氏の前に立つ。
「壬氏さま、お呼びでしょうか」
顔を上げた壬氏は「ああ」と小さく口にして、真顔で猫猫を見上げてきた。少々疲れているようだ。
壬氏は机上の右奥の箱から三つ手紙を取り、猫猫に渡して来る。疲れているはずなのに、猫猫に向けられるのは、作った笑みではなく、自然に漏れた笑み。天女には遠いが、麗人からの微笑は破壊力抜群だった。そんな天女の微笑も、猫猫には、余計なことを押し付けられる前触れだと、猫猫が一歩下がるが真後ろには、猫猫の行動を読み切った高順がいて、それ以上下がれなかった。
「全部、お前宛だ。受け取れ」
壬氏は主たる要件を先に言わない。
手に持っているのはなんの手紙だろうか。
こういう時は、怪しいの一言に尽きる。
しばらく、手紙を猫猫は眺めていたが、舌打ちしだした壬氏と、高順の深いため息が背後から聞こえてきて、猫猫は仕方なく受け取る。結局は雇い主の命令には背くことは出来ないのだ。
「主上からと、私と、玉葉さまからの推薦状だ」
「推薦状?」
何の推薦状なんだか。
猫猫は渋面になる。
「官女の試験が三ヶ月後にあるのだが」
宮廷官女は、良家の子女と殿方の出会いの場でもあり、欠員が出やすい。そのせいか、不定期ではあるが、採用試験の回数も多い。
猫猫としては、今のままで構わなかった。
薬学やら医術ならいくらでも頭に入る。だが、他の事に関してはからっきし頭に入らない。
何やら雲行きが怪しい。
だが、目の前の麗人から逃げ出そうにも、高順から退路は阻まれ、横から逃げ出そうものなら、小猫のように首根っこ捕まれ、高順に速攻で捕まるのが目に見えている。そういうことに関しては高順は抜け目ない。
「私にまさかそれを受けろと?」
猫猫が、諦めて、それを口にすれば、壬氏は言いようのない天女の笑みを浮かべて、猫猫を見てくる。免疫のない者が見れば失神するであろう、アレだ。
だが、猫猫からすれば、全身に悪寒の走るような悪魔の様な笑みでしかない。
「そうだ。今度こそ、受かってもらわないと困る」
「それは……無理では?ほら、前回落ちちゃってますし。私は今のままで…………」
未だに笑顔のままの麗人は、猫猫を畳み掛けるように、迫りくる。
いい加減諦めてほしい。睨まないでほしいものである。
「それがあれば、周りの目障りな官女共も多少黙るのではないのか」
「撃退方法はあるので、ご心配なく」
「それでは困るのだが」
「私は困っていません」
「私は助けがほしい」
「私は薬学以外は全くなのですが。行くなら医官の官女になりたいのですが」
「残念ながら、医局に官女はいない」
「では、今のままで」
壬氏も猫猫もどちらも引かない。
どうにかして壬氏は猫猫に是と言わせたいのだろうが、猫猫としても逃げたいと必死である。雇い主の手間、猫猫の意見が通るのは難しいのは分かる。
主上と玉葉妃の手紙出してくるなんて、逃げ道を塞ぐのは、卑怯過ぎる。それでいて、壬氏は明らかな命令ではなく、猫猫の意思で受けさせようとしているあたりが、策士だ。
「………………………」
「………………………」
猫猫と壬氏の無言のにらみ合いはしばらく続き。
猫猫は、ハラハラと背後から、それを見守る苦労性の高順の顔が想像できた。
壬氏は猫猫から視線を外して深いため息をつく。
「わかった。今は無理だろうが、交渉だけならしてやる。だが期待はするなよ。医局には先にも後にも官女はいない、お前にはその意味がわかるか?」
前例がない、と言いたいのだろう。
宮廷における壬氏の立場がどの地位に相当するのかは、猫猫は知らない。恐らく高位にはいるのだろうが、そんな、壬氏でも、苦い顔をするのだから、簡単ではないことは猫猫も分かる。
ただ、その足がかりを作った。それだけでも、よしとしよう。
「わかりました」
猫猫の返事に高順が、猫猫の背後で安堵のため息つく。
壬氏は、疲れた、とばかりに、頭を抱えていた。
「試験まで高順をつける。お前、絶対に受かれよ」
怖い。
落ちたら許さない。
壬氏の顔にそう書いてあった。
ギロッと、本気に壬氏に最強の笑顔で睨まれ、さすがに猫猫でも背中に汗が滲む。麗人の睨みは心臓に悪い。
猫猫が振り返ると、人のいい高順がにこりと笑う。
「高順さま、よろしくお願いします」
「こちらこそ試験まで三ヶ月しかありませんので、大変だとは思いますが、よろしくお願いいたします」
猫猫は途方もないこと受けてしまったと、内心、ため息をついた。
手元の推薦状、破きたい衝動を必死で抑えて。


猫猫の下女としての仕事は減った。
減ったというよりは、壬氏に減らされた。あまりにも猫猫の出来が悪かったからだ。
「子猫の場合、薬学以外の分野が入りにくいのでしょう。でも知らなければ、自分の身が守れませんよ」
高順は、猫猫にわかりやすく教えてくれた。時には恐ろしく。
普段は温厚な高順も猫猫は少々怒らせてしまった。たが、わからないものはわからない。逃げ場はないが、飴と鞭の使い方の上手い高順のおかげか、少しづつ仕事と勉強を並行出来るようにはなって来た。


玉葉妃の懐妊話があったが、試験があるからと、翡翠宮への猫猫の貸出も壬氏に没にされた。
「大丈夫だろう。翡翠宮の侍女は優秀だ」
貸出ではななく、必要時に猫猫か水蓮が出向くという事で、玉葉妃は納得したらしい。
毒見だけを猫猫がして翡翠宮に運ぶ。それ以外は水蓮が担う。
壬氏の身の周りは、引き続き猫猫と水蓮が分担してする。
だが、猫猫の勉強時間は極力削らない、という事だけは徹底してあった。


水蓮は翡翠宮に出かけていて、今日はこの宮には帰って来ない。
壬氏の身の周りの世話、侍女としての仕事は猫猫の担当になる。高順ではなく何度か見たお付の武官を連れて疲れた顔で帰って来た。
水蓮が夕食までを作って行っているため、猫猫はその続きを引き継ぐ、温め直し着替え終わった壬氏の前に置くと、猫猫が別皿についだものを一通り食べると、壬氏が食べ始める。
「水蓮は翡翠宮か」
「はい」
猫猫も一緒に食べている。本来なら、壬氏の立場上、猫猫食事は後にしか食べることは出来ない。壬氏が1人で食べるのは虚しいと猫猫を巻き込んだからこうなっている。水蓮はそれを嫌がるので、壬氏と一緒に食べるのは水蓮がいない時だけなのだが。
「勉強は進んでいるか?」
「どうでしょう。でも、一人でするよりはわかりやすくて助かっています」
「そうか」
「どうかしましたか?」
「いや、巻き込んだ俺が言う事、ではないのはわかっている」
「………………?」
「………いや」
見上げた壬氏の表情は冴えない。疲れているのか。
「はっきり言ってくれて構いませんよ。変に気を使われるのは気持ち悪いです」
「無理をしていないか?」
「いいえ。」
「本当に?」
「勉強は嫌いです。けど、壬氏さまの近くにいる以上知らなければいけないのも確かでしょう。無知では済まない。きっと、壬氏さまの地位は私の想像する以上の尊い地位をお持ちでしょう。普段の壬氏さま見ていたらそれくらいわかっていますよ」
「そうか」
安堵したように壬氏は笑った。
なんだかんだで気になっていたのだと、優しい御仁である。
はにかむように笑むその人は。
恨みごとは多少あれど、憎めない。
不思議な人だ。
きっと、そういう魅力に惹かれて側にいる者も多い、気がした。
派手な動きの裏にある、涙ぐましい努力を見てしまった今は、苦手意識は薄れ、小さな力にでもなれれば、いい気がした。
だからこそ、壬氏に恨み事を言う気にはなれなかった。
「それに、高順さまが、学ぶ事で、自分を守れるのだと言うのもわかりますし」
「それならよかった」
高順が目の前の食器の片付けをはじめたので、猫猫はいけないと、ついてゆく。仕事してないのが水蓮にバレるのは困る。お小言をもらう羽目になる。
「壬氏さまの身の周りのことは私がやりますので、子猫は勉強してください」
さすが、下女の仕事もこなすとはマメな男である。
猫猫は、高順の好意を受け取り、部屋に向う。
やりたくはない、けれど逃げ出そうにも出来ない。猫猫は気合を入れると教科書を開く。時間もない。
読み出せば、猫猫集中してゆく。わからない部分を書き出すと先に進む。
物音に振り返ると壬氏が教科書を覗き込んでくる。
何しに来た。
こんな所に現れるほど、暇人ではないはずだが。
猫猫が軽く咳払いすると、壬氏の顔が幼子のように拗ねる。
「俺にも教えられる事くらいある。さすがに傷つくぞ」
なんだ、からかいに来たわけではないのか、と壬氏の袖口を掴む。それならと、猫猫は使えるものはありがたく使わせてもらうことにした。壬氏はわかりやすく口角をほころばせて猫猫の横に、座る。
猫猫は冊子の項を戻ると、わからない部分を指す。
「では、壬氏さまが暇なら教えてください」
壬氏は猫猫から教科書代わりの冊子を取り。
「ああ。ちょっと貸せ」
前後の文を読むと、わかったのか紙に何やら書き出している。
書き終わると前後の繋がりを丁寧に説明してくれる。高順ほどではないが、実際に職務についている壬氏の話は読むだけよりも頭に入って来る。
忙しかろうに、ご苦労なことである。整った壬氏の目の下には隈がある。昨日壬氏は宮には帰って来なかったのだ。この御仁も暇人ではない。
猫猫は、話を聞きながら、壬氏の顔をちらっとうかがう。
それでも、付き合ってくれるのだ、猫猫は、心の中に広がってゆく不思議な感覚に、気づいて苦笑する。
あり得ない。
人の色恋なんて、猫猫はそもそも信じてはいない。期待するだけ無駄なのに。言い聞かせるように、猫猫は軽く頭を振る。
壬氏という人を知れば知るほどに、自分が自分でなくなってゆく気がして、考えるのを放棄するに至る。きっと答えの出ない問いだ。
今は、目の前に試験をどうにかしないと、いけないと、頭を切り替える。


いつだったが、高順が猫猫に聞いてきた。
「壬氏さまのことどう思いますか?」と。
猫猫は、誂われているのかと思ったが、違うようで
「不器用な方ですね。命令すればすむのに」
猫猫が思ったままを口にすれば、高順は苦笑気味に、笑っていた。
「それはきっと猫猫、貴女が相手だからでしょうね」
子猫とは言わず、猫猫と、高順は言っていた。
その意味は?
「それはどういう?」
「私に言えるのはこれまでです」
高順は、それ以上、猫猫には答えてはくれなかった。


官女試験までひと月を切った。
玉葉妃の妊娠も順調に経過している。
たまに、気分転換のように出向く後宮で、少しばかりヤブ医官に場所と生薬を拝借し調薬する。僅かでも薬に触れれる、そのせいか、猫猫は爆発することもなく過ごせている。壬氏はわかっていて少しならと目を瞑っているらしく猫猫には言って来ない。調薬しているのは、主にこの宮で使う物になるためか、水蓮の機嫌も悪くない。
ヤブには後宮でよく出る薬の常備薬を増やしてあげたのだから、損はないはずだ。
そのせいか、猫猫の勉強も随分と進んで、猫猫が薬草ではなく隙間時間に冊子を眺める姿に、宮の誰もかもが誂うこともなく、過ぎてゆく。高順だけでなく、たまに壬氏も猫猫の勉強相手となるのも見慣れた光景となっていた。
たまにみる武官が、馬閃という名で、高順の息子だと、聞いたのもこの頃だった。どうにで、似ているはずだ。歳は、皇弟と同じ歳らしい。ちらっと、冊子ごしに壬氏を伺うと、水蓮の入れた異国渡来の飲み物を優雅に飲んていた。
少し前だったか、勉強している猫猫を誂う、馬閃を高順が睨んていた。馬閃も感情は表に出やすいらしく、こちらも中々のボンボンだなぁと、思う猫猫だった。


猫猫が苦手ながらに勉強続けた成果か、先が見えてきた。
復習とばかりに、出してきた問題も、猫猫は答えられるようにまでなった。
高順は本当に優秀な先生だった。
普段、壬氏もこんな風に上手く乗せられているのだろうかと思ったら、ある意味、高順は武官ではなく有能な文官のように見える猫猫だった。
恐らくだが、高順もかなり地位を持っている高官なのだろう、ことは安易に想像がつく。


官女試験まで後、十日あまり
壬氏は泊まりとのことで宮には今は猫猫一人だった。
水蓮は翡翠宮でに手伝いに、高順も猫猫に教鞭を取り、終わったら、用があると今日は帰って行った。
外には護衛がいるが、広い宮に、一人というのも、寂しいものである。猫猫は近まる試験に向けて、蝋燭を灯し、眠れるまでと冊子を眺める。落ちたら一大事、と暇があれば読んていた。いくら読んでも不安はついてくる。おっかない雇い主の壬氏の顔が一瞬浮かんで、猫猫は身震いした。
今回ばかりは皆の期待を裏切るわけにはゆかないのだ。落ちれば、頭と胴がさようならなんて事態になりかねない。 
猫猫は僅かに震える両手を合わせ震えを止める。
「柄でもないなあ、緊張しているなんて」
大丈夫だ。優秀な先生にも習ったし、褒められもした。
だから今回は前回とは違う。
猫猫は自分に言い聞かせるように口にして、冊子を閉じる。
蝋燭を消して、布団に潜り混んだ。


猫猫はコツんとあたった生暖かい何かに気づいて、目を開けた。
酒の匂いと、煙草の僅かな匂い、白檀の淡い香りもする。色気のない醜女の寝所に忍び込む物好きもいるものである。
猫猫の視線の先には、何故か壬氏がいて、寝台に腰掛け寝ていた猫猫を無言で見下ろしていた。
視線はどこか虚ろで焦点を結んでいない印象だが、まるで媚薬を口にしたかのような、色気を放っている。
やばい雰囲気だとは思いつつも、起き抜けの身体は言う事を利かず猫猫の身体はすぐには動かなかった。
「……………」
壬氏の白磁の顔は、赤らみ、隙をついて猫猫の左手に絡めてきた壬氏の手は猫猫よりも体温が高い。
酔っている。しかもかなり。漂う酒の匂いはかなり強い。
酔って赤らんだ顔は変わらず夜の香りを漂わせていた。
男すら落としかねない、魔性の笑みだった。
猫猫とて僅かに鼓動は跳ねるが、その色香に惑わされるほどはない。次第に冷めてきた頭だったが左手を寝台に押し付けられているせいか猫猫は起きるに起きれなかった。
なんてバカ力なのか。
無駄なのは承知で猫猫は壬氏に問う。目が覚めてしまえば、猫猫の頭は冷静になって来た。
「壬氏さま」
「なんだ」
「手を離してください。起きれません」
このままではやばい。
ただ猫猫とて、その色香にのまれてしまわないという保証はどこにもなく。
起きれなくはないが、起きる先には寝台に腰掛けた壬氏の身体があって、仕方なく猫猫は下半身をズルズルと頭側にズレてゆき寝台の枠を背に座る。それでも猫猫の左手は壬氏に掴まれたままで離す気はないらしい。
「嫌だ」
さっきよりも近くなった壬氏との距離に、猫猫は後悔した。
「痛いです」
「この手を離せばお前は逃げてしまうだろう」
「当たり前です」
「何故逃げる」
「…………酔っぱらいのたわごとなんて聞きたくありません。そもそも、今日は泊まりではなかったのですか?帰って来るなんて聞いてませんよ」
「だろうな」
壬氏が思いの外酔ってないのか、いまいち猫猫にはわかりにくい。酔っている割には、まともに話している。
とはいえ、壬氏の目の据わり方はかなり飲んているように見える。
これでは埒があかない。が、壬氏の力には猫猫は敵わない。
逃げ出す方法がなくはないが、壬氏相手にやっていいものか迷う。花街の下賤な輩だったら遠慮なくやっている所だが、貴人相手だと猫猫はやめた。
「壬氏さま、とりあえずお水飲みましょう」
「嫌だ」
「わがままなんですから」
仕方ないと、猫猫は壬氏に近づくと、頬に唇を寄せた。猫猫の予想しなかった行動に、思惑通り壬氏の左手の拘束する力は緩み、猫猫は隙をついて逃げ出す。
「………まお……」
壬氏は、逃げた猫猫をじっと見つめてきて、不機嫌を隠す事なく猫猫から視線を外さない。
猫猫は卓子の上の水差しの白湯を、湯のみによそい、一口含む、一応毒がないのを確認してその湯のみ壬氏の前に、出す。猫猫が飲んでいたものだが、一つしかないものは仕方ない。
「壬氏さま。飲み過ぎですよ。とりあえず水飲んでください」
壬氏は仕方なくそれを受け取り口に含む。
白湯を飲みながら、壬氏は抜け目ない動作で、側を離れようとした猫猫の手を掴む。湯のみは、近くの卓子に置くと、猫猫を引き寄せられる。勢い余って、猫猫は壬氏の胸に飛び込む形になり、酔った壬氏の身体は猫猫の勢いを受けてぐらつき、壬氏は寝所に倒れ込んでしまう。壬氏が猫猫を離さないままだから、猫もその巻き添えをくらう羽目になる。
猫猫は、壬氏を見下ろす形になり、見なければよかったと後悔するほどの憂いを帯びた麗人だった。僅かに胸中に蟠るざわめきは、過去に誰にも抱いた事のない、なんとも言えない感情だ。
「お前は、そんなに俺のことが嫌いなのか」
「そういうわけではなくて」
猫猫にもよくわからない感情を、説明するのは難しい。反面に聞こえてくる警鐘を自覚しつつも猫猫は流されそうになる。
「ではなんなんだ?」
わけのわからない感情を抑えようとするが、壬氏を前にそれは出来ていなくて、厄介なことこの上ない。
必死に、跳ねる鼓動を表には出ないようにと、普段通りの声音を意識して猫猫は口を開く。
「らしくないですよ」
「そうだな」
一転壬氏は、憂いの中に哀しみを含めたような瞳で猫猫を見てきたかと思えば、あっさりと猫猫を抱えたまま寝台から起き上がり猫猫の手を離してしまう。
猫猫がびっくりして見つめた壬氏は、寝台に掛けたまま下を向いて動かなくなる。壬氏の自らの合わせた手は僅かながら震えていた。壬氏は何をこんなにも恐れるのだろう。
猫猫の中では、壬氏は主上と阿多の一人息子であり、何かの拍子に赤子の入れ替わりがあり同時に生まれた皇弟として生きている、猫猫より一つ上の青年だ。皇弟と入れ替わってことで、蜂蜜の毒にも当たらず、生きているわけだが。
明確な確証はないから、けして猫猫は口にはしないけれど。
不意に、猫猫は水蓮の部屋にあった行李に詰められた玩具を見た時の水蓮の言葉が脳裏に浮かんだ。
何か一つに執着してはいけない立場だったか、それに近い意味合いの言葉だった。
言葉を返せば、自身は自由の利かない立場の人間だと言う事。
園遊会の裏側で聞いた、ある高官の皇弟に対する、不義の子という揶揄の言葉。
主上は御歳三十五歳、皇弟は御年十九歳。
親と子の年の差がある。
幼女趣味の先帝故に、出た中傷なのは言うまでもなく、真偽を知らず、根も葉もない噂に、傷つく当事者の姿はいたたまれない。
猫猫は、壬氏がこれまで抱えてきた孤独な一面を目にしてなんとも言えない哀しみを抱く。今まで猫猫が見てきた壬氏という人格の奥には、そうせざる得なかった壬氏なりの感情がある。
妓楼の表も裏も見てきた猫猫には、何事も俯瞰するような冷めた部分がある。それは猫猫も自覚があって、今更にどうにか出来るわけではないのもわかっている。
よって、母性なんてものは持ち合わせてはいない。
色恋なんて、くそ喰らえとすら思う。
なのに、目の前の壬氏を救えたらと猫猫が思うのは確かにある感情なのだ。
(立場は違う。けど本質では私と壬氏さまはどこか似ているんだろう)
猫猫はなんとなくそう思う。

気づけば、猫猫は一回りは大きな壬氏に抱きついていた。
猫猫の行動に壬氏は、驚き、僅かながら肩がぴくっと動いた。だが、猫猫を跳ねのける事もなく、猫猫の小さな身体に収まっている。
「壬氏さまは怖いのですか」
しばらくの間の後に返って来たのは意外にも壬氏の本音だった。
「………ああ、怖い。全てを失っていまいそうで」
力なく笑う壬氏に、猫猫は更に抱く力を強めると、戸惑いながらに伸ばされた壬氏の腕が猫猫の背に回り、力強く抱きしめられる。
手を伸ばせるのであればこの人は大丈夫だ。きちんと希望を持っている。
「…………」
「…………」
どのくらい経ったか、壬氏が抱擁を解き、猫猫の顔をのぞき込んで来る。
「…………で?」
猫猫は意味が分からず、目を瞬く。
「で、とは?」
「慰めるとか大丈夫とかないのか、お前は」
「ないですよ。ご希望ならほしい言葉を差し上げますが。何がいいですか?」
「お前な」
呆れた調子に猫猫を見上げてくる壬氏の顔からは、憂いはなくなっていた。普段みる壬氏だ。
「なんでしよう」
「言い当てるだけ当てといて放置する気か?」
「だから慰めでほしいなら慰めるし、褒めてほしければいたしますと言ってるでしょう」
「もういい。そっちの方がお前らしい」
猫猫は壬氏の額に己の額を合わせ、両手で壬氏の頬を優しく包む。
「私は壬氏さまが壬氏さまらしくあればそれでいいので」
「………」
瞬間、猫猫の身体がふわりと宙に浮いて、再び猫猫は壬氏の腕の中に包まれ、猫猫の降りた先は壬氏の膝の上だった。
「突然何するんですか」
猫猫の抗議も、虚しく、壬氏は笑みを深め、その顔には笑みが浮かぶ。
非常に瑞月顔が近い。
だが、猫猫に向けてくる瑞月の双眸は真剣そのもの。
自然に漏れる、その甘い蜜のような色香に、猫猫は眸を逸らせずにいる。
早鐘のように跳ねる鼓動は、表情に出たがり、猫猫はそれを必死で抑え込む。
「猫猫、お前は、俺のことどこまで知っている?」
壬氏の柔らかな口調だった。咎めているわけではないらしが、猫猫には確実なものはなく口にしかねる。言い淀む猫猫に、壬氏は変わらず、穏やかに猫猫を見てくる。
さすがに皇位継承権の一位の東宮さまだとは言えず。
猫猫は失礼にはならないようにと、言葉を選ぶ。
東宮と同時に、現帝の弟君に当たるのだから、間違ってはいないはずだ。
「壬氏さまは本当は主上の弟君さまなのですよね。何故にそのような身分でありながら後宮の管理する宦官と名乗るのは私にはわかりませんが」
暴走する内面を抑えて、努めて普段通りを装い猫猫が言えば、壬氏は僅かに驚いた顔を見せた。
「やはり知っていたのだな」
「あれだけの情報があれば、さすがに気付きますよ」
壬氏は一瞬猫猫から視線を外して自嘲気味に笑う。
「瑞月という。あまり呼ばれぬ名だがな。名ばかりの名ならあるぞ」
今度は、猫猫が目を瞬く。
ここで真名を名乗られるとは思っていなかった。
「正確には呼ばないのではなく、呼べないのですけどね」
「お前も呼んてはくれないのか、真名を」
しゅんとする、壬氏は、猫猫よりも大きいのに子犬のようで、猫猫は困り果てる。
「自分らしくと言ったのはお前だ」
「確かに言いましたけど」
「俺は、お前には本当の名を呼んてほしくて伝えた。それがほしい言葉だ」
「……なっ、なんてことをさせる気ですか」
確かに、猫猫はほしい言葉とは言った。
だが壬氏の求める言葉は、求婚にも近い言葉の意味合いが混じっている、気がした。言ってしまえば、おそらく後には引き返せない。
それに気づけば、猫猫の鼓動は再び跳ねて、隠しきれず猫猫は耳まで赤く、全身に熱を持ち始める。
こんなはずではなかった。
先ほどまでの、茸の生えた壬氏は消え去り、猫猫を誂う、本人らしいであろう壬氏こと、見目麗しい瑞月がいる。
図られた。先ほど言った手前、言わぬわけにはいかず、猫猫は困り果てる。
反面、呼んでとばかりに、瑞月は満面の笑みを浮かべている。
瑞月にそんな目をされたら、猫猫も突っぱねる気は萎えてしまう。
瑞月の色香に当てられてしまうのはきっと。
もう既に目の前の夜の月に堕ちてしまっているからだ。
猫猫は、らしくもなく長いながい葛藤のもと、真っ赤になって小さな声で壬氏の真名を口にした。
「…………………………………………………………………………ず、ず…瑞月さま」
言い終わるかとともに猫猫の唇は瑞月に奪われて、唇を離れても、残る瑞月のぬくもりがある。
瑞月の満面の笑みは猫猫の最後の理性の欠片を砕くには充分で、猫猫はもう瑞月から逃げれないと抵抗を諦めた。
再び瑞月に抱き上げられたかと思えば、猫猫の背は質のいい寝台に沈む。痛くはなかった。
見上げた瑞月の頬に手を伸ばすと、先を是と取った瑞月が穏やかな笑みを浮かべている。
やっぱり、瑞月には笑っていてほしい。この人には笑顔が似合う。
猫猫が笑顔を返すと、ほろ酔いの瑞月と視線が交わる。
どちらからともなく重ねた唇からはまだまだお酒の匂いが残っていた。



瑞月が目を覚ますと、腕の中には、一糸まとわぬ猫猫がまだ眠りの中にいる。肌を通して伝わってくる猫猫のぬくもりに、瑞月は自然と頬が緩んでゆく。
夢、ではなかった。
酔いの中に残る僅かな記憶にある。昨晩の全ての記憶があるわけではなかったが。
成り行きとはいえ、お互いの合意の上で契りを結んだ。
敏い薬屋の娘は、既に瑞月の事など看破していた。
それなのに、瑞月への態度は出会ってからあまり変わらず、どこで気付いたのかは、瑞月の知る所ではないが。
瑞月は安堵からか、吐息をつく。
どう説明しようかと迷っていた所だったからだ。官女の試験に受かったら、猫猫にも頼みたい事があった。それには、皇弟としての身分があることを知らなければ出来ない事だったからだ。
とはいえ、酔った勢いで猫猫を御手付きにしてしまったのは、瑞月にとっては少々の誤算だった。もう少し、手順を踏んでからと考えていたのに、猫猫には悪い事してしまった。
猫猫の背中や首に点々と残る赤い跡を瑞月は撫で、突然に自らで手折ってしまった花には、少々の罪悪感がある。
だが、多少の罪悪感はあれど、猫猫を抱いたことには後悔していない。猫猫以外は瑞月には目に映らなかったのだから。猫猫以外はいらない。
猫猫の髪を優しく撫で、その手は、頬に触れたが猫猫は目を覚まさない。同じ布団に包まり、面倒事は後から片付けようと現状はとりあえず思考放棄して、瑞月が眠る猫猫を引き寄せ昨晩の余韻に浸っていると部屋の戸が開いた。
翡翠宮から帰って来た、猫猫を探す水蓮と、宮にやって来た高順だった。ある程度の時間なのに猫猫が起きて来ないと部屋に来たようだ。
忘れていた。
もう、すっかり朝だということに。
瑞月はそれに気づいて、狸寝入りを決め込む。
突拍子もないことをやらかしたという自覚は瑞月はあった。だが、それは消すことの出来ない事実であり、今は高順と水蓮にはあわせる顔も浮かばなかった。
感情だけで先走ってしまったのは後にも先にも十九年生きてきて、はじめてのことだった。
寝台近くの床には散らばる、二人分の衣。
ここは、瑞月の部屋ではなく、猫猫の部屋であること。
何があったかなんて、見ればわかることだ。
「…………これは」
「おやおや。私達は邪魔してはいけませんね」
絶句する高順と、にこやかに笑む水蓮と。
「そうですね」
何も言わず、戸は閉じられた。
瑞月は、無意識に緊張していたのだと、気づいて無駄な力を抜く。
予想より、悪くない反応だった。まあ、瑞月があれだけ立ち回れば、瑞月の猫猫への感情はとうに見抜かれているのは明らかだったろう。あまり会わない母にすらバレているのだから。
二人が部屋から去り、しばらくして。
「おはようございます、瑞月さま」
衣擦れの音とともに、猫猫が普通に挨拶をしてきた。
それは猫猫らしく、瑞月も釣られるように笑顔になる。
顔を朱く染めるしおらしい猫猫も見てみたい気はするが、花街育ちのこの猫はその辺も冷めた感情しか持たない気がしないでもなかった。
「ああ、おはよう」
見上げてくる猫猫が愛おしいと瑞月は抱き寄せた腕の力を込めた。離せとばかりに暴れ出した子猫を瑞月は離すまいと腕に力を込める。しばらくしたら猫猫は諦めたらしく大人しく瑞月の中に留まっている。どんな顔をしているのかは瑞月には想像がついた。
必ず守る。御手付きにしてしまった以上は。
この愛おしい猫を離すまいと瑞月は誓う。
誰も催促に来ないのをいいことに、瑞月は猫猫としばらく部屋で過ごした。


後日、猫猫は官女の試験を受けて、見事首席で合格した。
肩書きは皇弟付きの官女。
官女の事務仕事よりも、お付の武官と宮城のあちこちに現れて、皇弟の補佐をすることが多いと聞く。


それに、皇弟付きの官女が実は皇弟の妃であることを知っているのは今の所ごく一部の人間だけだった。
規律上は、猫猫は正式な手順を踏み、皇弟の瑞月の妃として、皇族の戸籍に追加された。だが、対外的に声明としては出していないためか静かなものだった。
それは皇弟、華瑞月の願いだった。


見目麗しい宦官が後宮を去ったという噂が立ったのは同時期のことだった。


別ログの転載。
随分前に書いた『一場の桜夢』の少し前の起点になる話です。
ブログの表示変わってるからどうかと思いこっちでも一個出してみた。
この話は完結しています。
続きはアメブロではなくpixiv内に全てあります。
pixivのページへは下記からご興味あるかたはそちらからお願いします。
(久しぶり過ぎてリンクの張り方忘れたのです😓)

これであっているのか謎だもの
(検索するとページには飛べるんだけど)















宿屋の二階の軒に座り、風間は煙管片手に通りを見下ろす。
祭りで人通りの多い通りをただ、無感情に見下ろす。風間の意識はどこか遠く、ここではない場所にあった。手にした煙管も、ただそこにあるだけで火は既になくなりかけていた。
「……………風間、聞いていますか?」
不意に、天霧の声に気づいて、風間は目を軽く伏せ、煙管を含み、静かに煙を吐き出す。風間はほとんど天霧の話を聞いていなくてとんと何の話だかとんと検討がつかなかった。
「………………………何の話だ?」
天霧はため息をついて、事態を少しかいつまんで再び口にした。要は、断ることの多い飲みの席に付き合えと言いたいらしい。風間はあからさまに嫌そうに、顔をしかめる。正直、風間は志士気取りの薩摩の人間と酒を酌み交わすのは、あまり好いてはいなかった。多少の護衛や密偵紛いの仕事は受けたが、酒宴は気が向かない時は断ることもあった。
「………くだらないな」
「また顔を出さない気ですか?」
風間は深いため息一つつくとまた露骨に顔をしかめる。
「出ないとは一言も言ってはいない。だが、池田屋の一件で、奴らも少々焦ったと見えるな」
口元に浮かぶ、冷たい笑み。池田屋と聞いて風間の頭の中に、ふと池田屋で会った女鬼の姿が浮かぶ。
「……………」
そう、風間に釘をさす天霧を風間は心ここに在らずといった視線を無言のまま向ける。
「行くところがあるので、私は出ます。風間、夕刻には戻りますので、くれぐれもここにお戻りいただきますよう」
天霧は、風間の言葉を待たず、姿を消した。
風間は、天霧の消えた方向を一瞥し、既にいない天霧に返事がわりに長いため息をついた。
何もする気がなくて手持ちぶさたさに階下の通りを眺めていた。
少し奥、あさぎ色の羽織が見え、彼らは近づいてくる町の人間はそれを見て、通りの脇に下がる。池田屋のあと、少しずつではあるが、新選組に対する評価は少々上がった印象はあるがまだまだ、新選組はよそ者扱いされている呈があるようだ。
部屋に感じる一つの気配、宿の中にいる浪士の状況を探っていた不知火が戻ってきたのだと風間は気づく。不知火は風間の隣に並び、階下を眺める。不知火の視線の先には槍を持つ最後尾の新選組の隊士だ。風間の知らない男だった。
「………あれ……あいつ」
「………なんだ?」
「池田屋で会った奴だ。人間にしては骨のある奴だったぜ」
「…………所詮は人間だ。関わるだけ無駄、だな」
暇潰しを見つけた子供のような、不知火の瞳に、風間はただ冷めた視線を投げただけだった。
「…………まぁ……そうなんだけどな。久しぶりに楽しく思ったのは確かだな。
………風間?………新選組っていうのは男所帯じゃあ、なかったのか?」
「……そう聞いていたが。どういう意味だ?」
不知火が原田と並んで歩く羽織を一人の中性的な一人の青年とおぼしき人間に視線を送る。
「あの青い羽織を着てない奴だ。どっかで見た気がするんだよなぁ………」
風間は視線の焦点をそこにあわせて、見覚えのある姿を見つけて、しばらく黙る。
(あの女鬼だ…………)
「風間………?おい、どうしたんだ?」
「………あれは」
「風間は知ってるのか?俺には、女に見えるんだよな?しかも、どっかで会った気がしてな」
「池田屋にいたな」
「……へぇ、で何者だ?」
「………………あの娘は鬼だ」
「は?………むすめ?」
「何を驚く。疑っていたんだろう」
風間は瞠目する不知火の反応が謎だった。
「………それはそうだが。本当に女………とは驚きだな」
「…………たぶん、な」
実際に確かめたわけではないためそれは風間の見た目による判断でしかない。
「風間、お前適当に言うなよ。鬼ってのも適当じゃあねぇよな」
「それは、確かだ。白銀の髪に金の瞳、あいつの頬は切れたはずだが、その場で治る奴だからな」
「……へぇ…………それはそれは」
何やら含み笑いの、不知火が風間には癪に触る。
「何がおかしい?」
「お前が、他人に興味持つなんて珍しいな。しかも、女に」
「………………」
話している間にもあの娘は近づいてきて、落ち着きなく辺りを見回す娘の瞳と、宿屋から階下を見下ろす風間の赤い瞳とが一瞬交差する。
それは、短くも、長い時間で、一瞬時が止まった錯覚に風間は陥る。鬼化した姿が、娘の姿とだぶり、冷徹と言われる風間のその鼓動が一瞬にして僅かだが乱れた。娘から、瞳を反らせなくて、思わず見つめてしまう。
風間は、はっ、と我に返り、ごまかすかのように、既に火のなくなった煙管を口にする。
だが、不知火の注意は風間にはなく、あの娘にあった。風間はそれに安堵した。
「…………なんであの娘には俺らが見えてるんだ?」
「なぜだろうな」
「お前、いつものように部屋の気を消してんたろう」
「ああ。そうだか」
風間は幼い頃の経験からか、人里に降りている際は目立たぬように人間とは一線を引く意味も込めて自身や部屋自体に結界を張ることが癖になっていた。今も、部屋全体に結界を張っていたから、本来であれば風間を見上げる者などいるずないと踏んでいた。それをあの娘は視線に気付き、風間を見つけてきた。
「………」
「…………ただ者ではないと、言うことなんだろうな」
ただ者じゃないと言われた娘は、どこか怯えたように挙動不審に辺りを見回したためか、隣の男にえらく心配されていた。
じっと、娘を眺めていた、不知火が謎が解けたのか声が上がる。
「……………あ……わかったぜ。あの娘、あいつに似てるんだ」
「思い出したか」
「お前も知っているはずだなんだけどな。
風間、南雲家を乗っ取り当主になった奴覚えてないか?南雲の当主をうまく懐柔してさ」
「南雲、だと?」
南雲家の事情は聞いていて、確か南雲の年若い当主に会ったこともあるはずなのだが、風間には顔の記憶がなかった。南雲の異能者は去年代替わりしたての齢六つの女鬼だ。能力は、稔動力。風間はその子どもの顔はかろうじて覚えてはいたのだが。
「そうだよ。あそこは直系の男の後継ぎがいないからな。南雲家は珍しい女鬼の家系だな」
「………南雲、薫だったか?」
「何でお前は名前が出て、顔出ないかねぇ」
「興味ないからな。名前さえわかっていれば支障はない」
「てめえ、それでも西の鬼の頭領かよ」
「不知火。欲しいなら頭領の地位、お前に今すぐにでもくれてやる」
不知火はあからさまに顔をしかめた。
「そんな重荷いらねぇよ。めんどくさいだけだ。てめえが持っとけよ」
「…………ふん。お前もいい身分だな」
南雲薫といえば、東の鬼雪村家の生き残りだ。顔を覚えていないだけで、風間は事情は把握していた。
風間は数年前から会っていない数少ない親友を思い浮かべる。
(雪村…………)
南雲薫の似た人物となると心当たりは一人しかいない。南雲薫は雪村家がなくなり、直系の男鬼のいない南雲家に養子に入った。もう一人いた妹の女鬼は綱道が引き取ったと聞く。似ているとすればあの娘は雪村の生き残りの片割れなのではないだろうか。
『生きてたら必ず会いに来る。もし帰らなかったら、残された二人の兄妹を見守っていてくれないか』
知己は、別れ際笑ってそう言った。風間の脳裏にはその笑顔が今も残る。
親友とした約束は、今まで守れないままだった。もうそれぞれの道を歩いている。親友がそこまでの責任を持つ必要がない気がして、敢えて探さなかった。南雲薫の居場所はわかっていたが、綱道が預かったという雪村千鶴の行方は全くわからなかったが、探さず今日に至る。
ところが、どうだ、偶然にも雪村の兄妹の片割れを見つけたかもしれない。ある意味それは風間には好機な気がしてきた。
「風間。……もう火ねぇじゃねぇか。お前らしくねぇ……」
今はうまく他人の言葉が入ってこない。風間は、気づくと何か考え混んでいる状態だった。
だがそれを他人に指摘されるのは風間は好きではない。
「…………………不知火、少しは黙ったらどうだ」
「へいへい」
わざとらしく、顔をしかめる不知火を睨むように一瞥したものの、風間の意識はまた思案の奥に落ちて行った。
あの娘と話がしてみたいと、風間は思った。















1



ルトムント国の国境沿いにある街クロット。
隣国ヴェリーネ国との間に先々代アンリ国王の御代に不可侵同盟が結ばれ、長かった領地争いに幕を閉じた。その名残に残る、高い要塞の塀は今でも土地の記憶を伝え続けている。
今では、両国の間の地に互いの特産物を扱う市場が定期的にたっている。クロットで一番賑やかな場所といっても過言ではない場所だ。その分、大小様々な問題も抱えているのも事実だった。
クロットの街の北に隣接するフォルティア伯爵領、南に隣接するのがラグレーン子爵領。主に、この両家が中心となり役人の手の届きにくいとされるクロットの治安を維持していた。
クロットと他の街との間には2つの大きな山脈が横たわっており、山脈の山中には山賊が住むとさえ言われ、クロットはいわば陸の孤島、忘れ去られた街と揶揄するものも多かった。


そんなクロットに住む少女、ラシェル。
これでもフォルティア伯爵家の長子、ヨアンの息女で、18歳になる。母親譲りのプラチナブロンドの長い髪に翡翠色の瞳、整った顔だちは街に出ると人目を引くのだが困ったことに、本人はあまり気にはしていないのだった。


 
今日は、市場の立つ日、フォルティア伯爵家当主である父、ヨアンの仕事の手伝いでラシェルは市場に出かける。ヴェリーネ国に駐在するヨアンの知人に会いに。彼は市場の立つ日にやってくる。ラシェルが出向くのは彼の指名で、手紙を複数預かるだけの仕事。その中身はラシェルは知らない。
長い、薄汚れた外套を纒い、いつも出入りする食堂で昼食を軽く取る。街の人も普通に食べにくる場所柄、ラシェルは多少浮いて見えるのだが、幼なじみと小さい頃から出入りしているため落ち着く場所の一つ。ラシェルを知るものも少なくなく普通に挨拶してゆく人もいる。そんな場所。
市場が立つ日なのか今日は客はいつもより多い。
その客の中に、ラシェルの目をひく男が一人。横掛けのカバンから覗くお金の入った袋。ここでそれはスリの餌になる意味を示す。
視線だけで周りを見回すと複数のスリがそのカバンを狙う。
(だよねぇ……仕方ない助けるか)
ラシェルはフードを被ると男の横に掛ける。
「お兄さん、そんなんじゃお金なくなるよ」
「……えっ……」
突然、ラシェルに話かけられたことに男は驚く。薄汚い店にはそぐわない美少女。なのに場馴れしているという矛盾。
「周り、スリに囲まれてるよ。いいの?」
男は我にかえり、カバンを手元に引き寄せる。
「だめです。これは……大事な……」
「大事なら、場所考えることね。じゃあね。クロットではね、お金は身につけて持つものよ。さよなら」
「まっ……待って、まだお礼を………………」
男は咄嗟にラシェルの外套を捕まえた。反動でラシェルのフードが外れてしまう。
「…………あ………何してくれんのよ。あんた」
ラシェルが軽く睨むと、男はすくむ。
「ごめんなさい、ごめんなさい。わざとじゃ、なくて」
「もういいわよ。どうせ、みんな私だって知ってるし。離して。お礼とか、いらないから。」
「ごめんなさい。ありがとう」
男の手が外套から離れる。
「どういたしまして。買い物楽しんでね。じゃあね」
ラシェルは、仕事をすべく、店を後にした。


乗ってきた愛馬は、知り合いの所に預けたままに、ラシェルは市場の開かれている、城門の前まで徒歩で移動する。10分ほど歩くと高い城壁が見えてくる。中に入るには、複数の武装した門番の立つ門をくぐらないといけない。
ある間隔ごとにある城壁、その前に立つ門兵の横を通り過ぎてそこは、ルトムントとヴェリーネのあいなかに存在する自治領。
ここでは独自の法律が適応されるため、注意が必要となる。
ラシェルは、慣れた様子で門の奥へと躊躇なく歩いてゆく。歩く度カチャカチャと腰に下げた長剣が音を立てる。
天幕いっぱいに両国の商人がいろんなしなを並べている。ルトムントの言葉もヴェリーネの言葉も混じり合う、異質な空間だ。
ラシェルの目的は決まっているが、それだと怪しまれるから、他の店を見ながら移動した。それを見て、盛大にため息をつくラシェル。
(安くて相場の2倍なんて、アホらし。買う気がしない)
結局、何も買うことなく、目的の天幕へと行き着く。
『こんにちは』
ラシェルは少しだけ外套のフードを持ち上げた。天幕の奥の彼、サクラも日焼けした顔に笑顔を浮かべる。ラシェルが話しているのはルトムント語ではなく、ヴェリーネ語だ。
『相変わらず、アコギな商売してるわね。こんなに法外の値段ふっかけられて買う人いるの』
『ひどいな。このじゅうたんは一級品なんだよ。これ以上は安くできないよ。これだから、価値のわからないルトムント人は困るよ』
サクラはあからさまに嫌な顔をする。サクラの指の先、光に反射して銀細工の髪飾りが光る。髪止めだと思う。
『指の先の髪飾りはいくら?』
『200だよ』
『100にまけて』
『150』
『50』
『……何でまた減らすの、お嬢さん。無理だよ。せめて100が限界だよ』
『80』
しばらく値切り交渉は続き。結局サクラが折れる。
『もういいよ50で。ただし、次も来るから来てよね』
サクラは髪飾りを紙袋に突っ込み、ラシェルの渡した硬貨と交換する。
『うん。またくる』
わずかに笑みを浮かべる。
『君には負けたよ。約束だからね。君に会えるの楽しみにしてるよ』
渡された、紙袋は髪飾りだけ入っているにしてはやけに四角に固かった。手紙が入っているのだ。ラシェルは3通の手紙と髪飾りを確認すると、外套の下のカバンにしまう。
『中身は間違いないかい?』
サクラはラシェルを意味あり気に見て、問うてくる。
ラシェルも正面から見返して、笑顔を作った。
『うん。あってる。ありがとうまた今度』
『……ああ』
周りには、手紙の交換は見られてはいけない。あくまでも自然にしないといけないと、言われていた。
(……やっと終わった。帰ろう。長居は無用だ)




「……おや、ラシェル?また、派手に値切り交渉してたね」
通りすがりにラシェルは、露店の店主に話かけられる。外套であまり顔は見えないはずだが、何故わかるのか、ラシェルはいぶかしむ。フードは外した記憶はなかった。
「うん、見られてた?」
とはいえ、すぐに笑顔を形作ると、ラシェルは人当たりのいい笑顔を店主に向ける。
「あそこの店はあまりお薦めしないけどね。ぼったくりに合わなかったかい?」 
「………あそこ、確かにぼったくりだけどたまに掘り出し物あるのよね」
「それはわかるけどねぇ……お気をつけよ。」
「おばさん、心配してくれてありがとう」
「それはそうと聞いたかい?明後日、王都の視察団が来るそうだよ。何十年ぶりかね、正式な視察なんて」
「うん、知ってるよ。父様、それでてんやわんやだもん」
「ごめんよ。聞く相手間違えたね。
次期伯爵様になるんだ、知ってて、当然だよね」
「………」
その一言にラシェルは頭が真っ白になる。
(……私が………?)
他人に言われて気づく、自分の立ち位置。ラシェルは正直深く考えたことはない。
「違っていたらごめんよ。でもね、私は役人の左遷の場でしかなかった不遇な街がヨアン様が来たことによって、過ごしやすくなったんだよ。クロットの街をろくに知らない役人よりあんたか継いでくれた方があたしらとしては嬉しいけどね」
「……私は……そんなに偉くはないよ。父様みたいには………なれない」
そんな感傷に浸るラシェルの気をそぐ、怒鳴り声にラシェルは我にかえった。
目の前の天幕ではヴェリーネ人の女店主が、客を怒鳴り散らすという光景がひろがっている。まぁ、自治領内ではめずらくはなかった。ラシェルのように、外国人相手に同等にやりあえる人物は少ない。
ラシェル達からは相手が外套を羽織っているため女店主が誰に怒っているのかはこちらからは見えない。
「かわいそうにね。スーマンは近くにいないわね」
「そうみたいね」
店主の言うスーマンは街の人の格好をして街を護っている警備の役人のことで、市場にも紛れ喧嘩の仲裁や通訳、あらゆることを総合的にこなすプロ集団だったのだが、この周囲にはいないようだ。 
その間も目の前の騒動は終息を知らず、怒鳴る露店主に、あたふたとルトムント語をぶつぶつとつぶやく男(らしい)の2つの声が響くだけだ。
騒ぎの周りには小さな人だかり。傍観を決め込む街の住人。ラシェルには見慣れた光景だ。ラシェルも傍観者の一人ではあるのだが。渦中の男が不憫に見えて、ラシェルは溜め息ついて近寄る事にした。
「あんたが無理して出る必要もないはずだよ。これだけの騒ぎだし、じきにスーマンが来るよ」
店主のが心配そうにラシェルに静止の声をかけるが、もうラシェルには聞こえていなかった。
彼らに近付くと、ラシェルは露店主に問う。
『どうかしたの?通訳しようか?』 
『あんたいい子だね。頼むよ。言っとくれよ、この優男に。ばばあだと思って舐めとる。値切りには応じんと。ヘラヘラしおって腹が立つたらありゃしないよ』
『伝えるね』
どっちが悪いなんて、ラシェルにはわからない。ただ、言葉が通じなくて起きてるトラブルらしいことはわかる。ラシェルは優男と呼ばれた男性に視線を向ける。
紫の瞳、綺麗な顔立ちの若者だった。諦め悪いからラシェルはもっとおじさんかと思っていた。男も、ラシェルを見て一瞬固まるもすぐに笑顔になる。
「彼女は、値切りしようとしたから、怒ってるだけだと。値切りには応じないそうよ」
「私は、ただ値段聞いているだけですよ。そしたら、彼女が怒りだして、意味わかりませんよ」
「………はい………?」
「値切りなんて高度な技出来ませんよ。ましてや、ヴェリーネ語話せませんしね」
「だったら、どうして話通じないって、諦めて店から離れないのかな」
「あれがほしくて」
男の指す先には、楕円の翡翠の飾りだった。服につける物だろうか、男物なのか女物なのかすら、ラシェルにはわからない。
「わかったから少し待ってて」とラシェルは店主を見やる。
『おばさん、その翡翠の飾りいくら?』
『銀貨で100だよ』
すぐに女主人はなぜだかまくし立てる。全く周りが見えていないらしい。しかも、喧嘩ごしだし。
『なんだい、値切りには応じないよ』
『聞いただけでしょ』
何でもかんでも喧嘩越しにこられたのでは迷惑以外の何物でもない。だが、この前この婆さん見たことある気がしてラシェルは思わず凝視する。既視感に記憶を辿る。
そして思い出す。この前も1人捕まえていちゃもんつけていた。あまりに何回もスーマンの厄介になるから最後通告を出されたおばさんだ。ぎゃあぎゃあと騒いでたから覚えていた。まあ、余罪は山ほどありそうだが、不確定のため起訴できないだろう。確か……名前は………。
いくらぼったくりが横行している市場でも、限度はある。
ラシェルはその瞳に色を混ぜると別のスイッチが入る。
『買うのかい?』
『私じゃないよ。でも、いいのかな。あなた、あと1回騒動起こしたら、出入り禁止なんじゃなかったかしら。カミーラ=バズさん。これも、1としてカウントするのよね』
とたんに、店主の顔が青くなる。ビンゴだったらしい。
『あんた……スーマンなのかい?』
『違うけど………似たようなもん、かな』
『お金はいい……いいからさ。譲るから。見逃してくれないかい。足りないなら………』
明らかに今までの勝ち気な態度が一転し女主人が動揺している。
カミーラは品物見渡し、翡翠の飾りの綺麗な首飾りを焦った様子で手に取る。翡翠の飾りと首飾りを丁寧に紙の袋へ詰める。
『………』
『これもつけるからさ……それとも他のがいいなら選んでくれていいよ。出入り禁止だけは………頼むよ』
カミーラは、ラシェルには紙袋を押し付けるように渡す。思わず、手に取ってしまい困る。
『……確かに、私はスーマンじゃないしね。』
『……話のわかるお嬢さんで助かったよ』
カミーラは終わりとばかりに、奥に引っ込む。
そこに、本物の商人の格好のスーマンがやっと来て、ラシェルを認め、目線をラシェルにあわせて伏せ、目立たぬように少し頭を下げるようにする。
商人らしからぬ威圧感からラシェルは武官だとすぐ気づく。
「何かありましたか?」
天幕の奥に冷や汗かきながらカミーラがラシェルの言葉を待つのがわかる。
「いいえ。何もありませんよ。値切ってて……。お恥ずかしい所見られてしまいましたね」
「いえ……よい、お買い物を楽しみください」
スーマンは、何事もなかったかのように去る。カミーラ深いため息が聞こえた気がする。
ラシェルは、いまだに呆然とする元凶の男の腕を掴むと、市場の外に連れ出した。無言で男はついて来る。
ラシェルは、門をでて、高い城壁沿いに歩いて、街の外れの路地に入り、しばらく歩きやっとラシェルは止まる。周りは日中もあまり日がささないのか、どこかしら薄暗い。
「あなたはどこまでゆくつもりですか?」
「人気のないところまでよ」
「散々目立っといてそれはないでしょ。元が綺麗なんだから十分目立ちますよ」
「同じ台詞返すわ。あんたも充分目立つわよ」
寡黙な男かと思えば、そうではなかったらしい。露店での態度と今との雰囲気の差にラシェルは違和感を感じる。今は露店で見たしおらしさは全くなく、我の主張のしっかりできる男という印象がある。
「それはどうも」
男は、ラシェルの外套のフードを唐突に外す。男が被っていたフードは天幕を走る途中で外れたためラシェルは既に男の顔を見ていた。
「何するのよ!」
睨むラシェルに、ただ男は笑顔を崩さない。
(なんか、むかつくわ。この男)
「私だけあなたの顔見れないんじゃ、不公平でしょう」
ラシェルは外套のポケットから、さっきの紙袋を出すと、男の胸に押し付け、すぐに手を離してしまう。
「あなたのよ。」
男は落ちそうになった紙袋をすんでで拾う。
「あなたのも入ってるでしょう。首飾りなんて、私は着けませんよ」
あんなじゃらじゃらした飾りなんてラシェルは欲しくなかった。多分、安い物ではないのは宝石に詳しくないラシェルにもわかる。中心を陣取るひときは大きな翡翠一つで高額なのに、周りには翡翠と水晶なのか交互についているのだ、安くはないはずだ。だけどそんな高価な宝石もラシェルには興味が全くない。
「奥さんにでもあげれば?私はそんなじゃらじゃらしたのはいらない。売るなり、捨てるなりお好きにどうぞ。次にあなたがぼったくりにあっていても絶対に助けないから。じゃあね。もう、行く」
男は、ラシェルの手をつかもうとしたが、ラシェルは軽々とその手を避けた。
「……ちょっ……なんなんだよ。あれ………ちょっと…待って」
そのまま後ろ振り向かず、ラシェルは歩き出す。
お互いに名前聞かなかったことに気づいたのはずいぶん後になってのことだった。






途中までですが、つづきはこちらにあります。
下記の一覧から出ます。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11229897


プロローグ


ラシェルが10歳になったある日それは突然にもたらされた。
10歳の子供が背負うには重い重い真実。
「ラシェル、あなたに大切な話があるの」と、いつにない真面目な顔で母親であるエマはラシェルを子供部屋から連れ出す。
行き先は、父のいる執務室。
ただならぬ雰囲気を、ラシェルは子供ながらに感じて、黙りこんでいた。
「ラシェル、今からする話は決して誰にも話してはいけないよ。」
ラシェルは父、ヨアンの瞳を真っ向から見返し無言のままうなずく。
「気づいてるかもしれないが、私とラシェルは血がつながっていないんだよ」
あまりにも衝撃過ぎて、ラシェルにはその辺の記憶は飛んでいた。ただ、その場に居たくなくて逃げたのだけは覚えている。どうやって、ヨアンと仲直りしたとか、細かい記憶はなかった。
何故、誰にも話してはいけないのかとか、言われた気がするのだが、わからなくなっていた。だけど他人にこの事実を話す気はさらさらなく、8年経った今でも誰にも話したことはない。話せば、今の生活が壊れる気がして、口には出したくなかった。
6年前に血の繋がった母を病気で亡くした後も、ヨアンの態度は変わらず、悪いことすれば当然怒るのだが、基本的には優しく見守っていてくれた。
血が繋がってなくても、父様は父様だと。いつからかそのことにきがついた。
ラシェルにとってはそれだけで充分だった。