普天間飛行場は田んぼの中にできた?【誤解だらけの沖縄基地・11】 | 猿のブログ

猿のブログ

いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

普天間飛行場は田んぼの中にできた?【誤解だらけの沖縄基地・11】
2016年2月7日 07:01   沖縄タイムス+プラス

 

 

「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった」「商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りに住みだした」


戦前(1944年)の宜野湾村と普天間飛行場の重ね図

 2015年6月25日に開かれた自民党若手議員らの勉強会。ベストセラー作家・百田尚樹氏の事実とかけ離れた発言は、宜野湾市民の猛反発を買った。米軍普天間飛行場がある場所には戦前、村役場や宜野湾国民学校もあり、南北には宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれた街道が走る生活の中心地だったからだ。

 「住民をばかにしている」「ネット情報をうのみにしたような幼稚な発言だ」


 3日後の28日。大部分の土地が接収された字宜野湾郷友会(宮城政一会長)の総会では、怒りの声が噴出した。字宜野湾の住民は、ほぼ現在の飛行場内に住んでいた。

 このような「基地は田んぼにできた」という発言は過去にもあった。10年、当時のケビン・メア在沖米国総領事だ。その要人の認識不足の発言に、宮城さんが「カチンときた。ならば証明しよう」と始めたのが、戦前の集落の様子を再現するジオラマ作りだった。

 お年寄りへの聞き取り調査を重ねているさなか、著名な作家によって再び古里を侮辱された。

 「またか、という思い。ちょっと調べればすぐ分かること」。宮城さんは悔しそうに語る。

 「私たちの古里がなかったことになる。先輩からは市場で買い物したこと、馬場にンマハラシーを見に行ったこと…。たくさん聞いた。生活の場であり、憩いの場でもあった場所だ」

 そんな人々の生活拠点はどのようにして奪われたのか。

 宜野湾市史によると、沖縄戦前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、人口は1万3635人。そのうち、普天間飛行場は14字にまたがる宜野湾の中心に建設された。その14字では8880人が生活していた。

 人々の古里が奪われたのは45年の沖縄戦。宜野湾へ侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路の建設を始めた。

 住民は同年10月以降に順次、収容所や避難先から帰村が許されたが、多くが古里に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。


 百田氏が言う「商売目当て」では決してなく、基地の周りに住まわされたのが実情だ。

 古里を奪われた住民の先祖が眠る墓や御願所は、今も基地の中だ。基地内に入るには米軍の許可が必要になる。宜野湾郷友会が年中行事で拝むウブガーはフェンスの奥わずか100メートルほどの場所にたたずむ。

 宮城さんは話す。「古里の土地に入るのに、許可を得なければならないというのは…。矛盾してますよね」(「沖縄基地」取材班)