2018.5.23 発行 曽野綾子著
1931.9.17 生まれ
母に近いので、母がどんなことを考えていたか知りたくて読みました
この本はご主人の看病をしている頃もその後もあり
エッセイとして、週刊現代や週刊ポストでも書かれているのを
思い出しながら読みました
著作が多くて、他にも何冊も借りてますが
この本は特に題名が気になって、少し読んでは
重くて、先延ばしにして、ようやく今夜読めました
第一部
人間が確実に体験する「死」という人生最大の準備について
第二部
夫を見送った後に対面するようになった「死」について
以下、抜粋
私の通っていた学校の修道女たちは、常に二つの言葉を口にした
一つは、「人生は単なる旅路にすぎない」であり
もう一つは「人生は永遠の前の一瞬である」というのであった
勉強の楽しさというものは、魂の空間に、今後の思考の足しになるようなものを満たしていくことなのかと思う
品のない言い方をすれば、空のお財布に寛大な伯父さんがお金を入れておいてくれた時のような感じだ
これで好きなものが買える、という豊かな気分だ
私が自分の好きな生活を、完全に犠牲にしてそれが朱門の寿命を長くするなら、それでもいいのである
しかし私はその手の自己犠牲の結果の怖さも知っていた
私は若い時に、メニンジャーだの、フロムだの、ピカートだの、フランクルだの精神分析学者たちの著作を読み漁った
私自身の精神状態が健康ではなかったからでもある
決して正当に内容を理解したとは思えないのだが、その結果として人間は、自分の心一つさえ完全に自己コントロールの元に掌握できるものではないことを知った
私は自分の実生活がある程度以上に厳しくなると、そういう運命を与えた人を、それが誰であれ、単純に恨むようになることを知ったのである
その原因が朱門であるという状況になることは、かえって朱門に気の毒なような気がしたのである
だから看病にも完璧を期すことを止めようと思ったのである
現実の私には完璧を期すことなどできないだろうが、仮にできたとしてもそれは私の心にどこか恨みの感情を残すかもしれない
努力と結果は決して一致しないし、一生懸命学ぶことは将来の成功とも幸福ともほとんど関係ない、と子供たちがわかるのは、何歳くらいからだろうか
しかしそれでもなお―――親から影響を受けなくなった歳からでも―――大抵の子供には、将来の成功のための基本的な姿勢として、努力主義の影響を残してしまう
そしてそのような子供たちが、人生の中年を迎えると(ということは五十歳を越えるようになると)こうした努力は、現世で成功するためでなく、ただ悔いなく死ぬための準備である、と覚る(さとる)ようになる
と同時に、それは生きるための姿勢なのだ、とも言いたくなるのだが、納得して死ぬための務めと、満足して今日を生きるための務めとは、互いの末端が繋がり合っていて、言葉の違いほどには分けられていないこともまたわかるのである
現世でこの満足の度合いをどこに置くか、という水準を世間的な評価に置くと、人間はずっとその尺度で追いまくられる