母親と以前話をしていて
沖縄に誘った時、いい所だよと言ったら
天国みたいなところか と聞くので
(天国ならお金はいらないし、欲しいものは
なんでもすぐに手に入るのだが
沖縄はさすがに天国とは違うから)
それほどいい所じゃないけどね
と言ったのだが、
どこか行きたい所はないの
と聞いたら、あちこち行ったからもういい
と言うので、じゃあ、天国だけか
と、前に言っていた天国を思い出して言ったら
嫌なこと言うなあ と、ぽつりと言われた
天国はいい所なのか、イヤな所なのか
それは、死んだら終わり 何も残らないと
母親は思っているからなのだが
沖縄の黄金言葉(くがにくとぅば)で、以下 引用です
グソーは雨どいの下にある (後生は雨垂いぬ下)
(グソーとは後生 あの世のこと)
沖縄では死んだら終わりではなくて、
あの世は身近にあって
「いつでも(後生の)おじいちゃん、おばあちゃんは身近にいるから、
悪いことはできないし、おじいちゃん、おばあちゃんへの感謝の
気持ちを持ち続けて」 というのがあるんですね。
「あの世とこの世は近くにあるからこそ“生き様が大切”なんだ」
「それが先祖代々から脈々と受け継がれてゆくのだから、
“子孫にも誇れるような人”でありなさい」 という意味の
黄金言葉なのです。
死を、旅立つというけど、沖縄では、すぐ近くにいること
実際、見える人の話からも近いはず
養老孟司さんの対談集 で記憶に残るのは
養老先生には理想の死に方はありますか。
養老:死に方を考えるほど、くだらないことはない、と、
それはもう考えないことにしました。
だって、考えているうちは生きている(笑)。
だいたい結論は簡単ですよ。俺が死んでも俺は困らねえ、と。
隈:人は困るかもしれないけど、自分は困らないですもんね。
隈さんは生きているうちから、そうだったりして。
隈:ははは。
養老:だいたい、みんな毎日、意識をなくして眠っているんだからね。
それと同じことでしょう。
名言集を見ていると、こういうのもありました
ある女性が中学生のときにいじめられたいきさつを
書いた本を読むと、その中に出てこない要素がある
ことに気づきました。
それは花鳥風月です。
天気や花、季節の話が出てこない。
いじめられている当人の目が自然に向いていない
ということがよくわかります。
彼女には世界が半分しかないから、
いじめが相対的に重くなって当たり前です。
全文は、以下
都市化はいじめ問題の原因にもなっています。
いじめは、今に始まったものではありません。
よくいうのは今は陰湿でひどくて自殺者も出るからよくない、
昔はもっと陽性だったということです。
でもそれは違います。昔は逃げ場があったということです。
要するに人間が生きるためにやらなくてはいけないことが
二つに分かれていたのです。
対自然と対人間の2つの世界があった。
対人間世界が嫌ならば自然のほうに逃げるという手があった。
仮に勉強が駄目だったり、運動ができなかったりしても、
魚取りや虫取りが得意だとかそういう些細なことが
きっかけになって、いじめっ子だったはずの子どもが
面倒を見てくれるかもしれない。
そういう世界が半分になってしまったのです。
つまり対人間世界だけになってしまった。
対人間世界、対自然世界、それぞれにプラス面と
マイナス面があります。
いじめは対人間世界のマイナス面の一例でしょう。
対自然の世界がなくなるということは、対人間世界の
マイナス面が相対的に拡大することになります。
かつては世界の4分の1だったものが2分の1になってしまう
からです。
ある女性が中学生のときにいじめられたいきさつを書いた本を
読むと、その中に出てこない要素があることに気づきました。
それは花鳥風月です。
天気や花、季節の話が出てこない。
いじめられている当人の目が自然に向いていないということが
よくわかります。
彼女には世界が半分しかないから、いじめが相対的に重くなって
当たり前です。
もちろん自然にもマイナス面があります。
洪水に遭ったとか、雷が怖かったとか、そういうことは
自然のマイナス面でしょう。
プラス面は晴れた日に外に行けばわかる。
同じように対人間の世界にもプラス面とマイナス面がある。
先生に褒められた、親に褒められた、お小遣いをもらった
というのはわかりやすい対人間世界のプラスです。
それから先生に怒られた、親に殴られた、友だちにいじめられた
というのは対人間世界のマイナスです。
そんなふうに世界は4つあったのです。
その本には、先生が何を言った、友だちが何を言った、
というような人間のことは嫌というほど書いてありました。
しかしその日が雨だったのか、風が吹いていたのか、
月夜だったのか闇夜だったのかがわからない。
こういう世界では当然いじめは深刻になるのです。
今のほうが、子どももハワイやグアムに行ける時代だから
世界が広くなったような気がしているかもしれません。
しかしそれは間違いです。
なぜなら、それは日常のことではないからです。
要するにハレの日の話であって、日常生活の世界は狭くなっています。
こうでなければならない と、思い込むと
世界が狭くなるのではないかなと
私の勝手な解釈です