養老孟司 | 猿の残日録

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いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

5年生存率が48%とか、訳が分からないよね。だって本人にとっては0か100なんだもん。だから、僕は考えないようにしています。だって毎日寝ているんだからさ。毎晩、意識がなくなっているんだから、別にそこから戻ってこなくなっても、何の不思議もない。

もう10年以上前になるけど、実は、僕はもう自分の葬式は済ませているの。

曹洞宗の若いお坊さんの集まりが山口で開かれた時に参加して、僕の葬式をしてもらったんですよ。ということで、僕はもう死んでいるので、葬式についても、死についても、何も心配はいらないんですよ。



年寄りで今、地元に残っている人たちというのは、僕らの世代から団塊まででしょう。そういう人たちが既得権を持ってしまっているから、ものごとが動かない。テレビのニュース番組で、農業の後継者問題なんかを取り上げることがあるでしょう。田舎のじいさんが「後継者がいなくて…」と、こぼしているんだけど、「お前がいるからだろう」って俺は思うんだよね。

いつの時代も、人間社会の常識というものには、相当なズレがあって、戦争中なんかはすごかったですもん。ただ、みんな、そのズレを言わないだけ。僕らはそういうことを経験して、よく知っていますから。


僕は最近「日本人50%論」という論を立てるのに興味があってね。

要するに、日本人というのは集団の中で50%の人が本音の反対を言う、つまりウソをついているんじゃないかという人間観察論です。例えば原発について、100%が賛成したとしても、50%はウソをついているんだから、本音から言うと半々なんですよ。同じように全員が反対だと言っても、半分はウソを言っているから、本音は五分五分。で、これは賛成8、反対2でも、結局、本音は五分五分になるんです。

日本人の本音はいつでも半々だ、ということなんですね。現代の家族の食について研究する岩村暢子さんが書いた『変わる家族 変わる食卓』の中で、「丁寧に調べてみたら、日本の主婦の50%は言っていることと、やっていることが逆さまだった」って書いてあって、まさにこれも50%社会なんです。じゃあ、それがでたらめな社会かというと、要するにそれが日本で、そういう風に存在している、ということじゃないかって思うんです。

この論の面白さは、「日本では半分の人間がウソをつく」という、シンプルな仮定だけがあるところなんです。高橋秀実さんが『からくり民主主義』の中で書いていたのも、まさしくそうでした。どんなに反対や賛成が激しくても、基地問題や原発問題では、その比率が51対49になるって。全員が賛成と言うと、お金が出ない。全員が反対になっても、お金は出ない。そこが、51対49だと最大限にお金を引き出せる。

日本の社会は元来、本音を隠しながら、五分五分で調整してきているんじゃないかなって思いますね。



一人称とは「自分自身」のことで、二人称は「知り合いや家族」、三人称は「知らない人たち」ということで、その中で、二人称の死だけが考察の対象になる。

そもそも自分が死んだら、自分の死のことなんて考えられないでしょう。自分と縁のない三人称も死も、まあ関係ないよね。今、隈さんと僕が対談しているこの瞬間だって、世界を見ると、何人も人が死んでいるんですよ。でも、そのことは我々に何の関係もないでしょう。赤の他人だから。

それで、人にとって考えざるを得なくなるのは、二人称の死。それはつまり、共同体の問題になってくるんですよ。

結局、死後に「自分」という主体が残るのは、共同体においてなんです。たぶん本人だって、共同体には記憶していてもらいたいと思うでしょう。その一番極端な例がユダヤ人で、彼らは墓を一切壊しません。都市計画で新しい道路ができる時も、ユダヤ人は墓地の移転はしないで、道路の下とかに作り直す。

共同体というのは、「私」と「あなた」という二人称の、もっと大きなもののことですか。

養老:そうですね。それも家族からもうちょっと広がって、日本の場合だと、世間といわれているもの。まあ、厳密に定義することは難しいのですが、一応自分とつながっているという前提の人たちですね。



だいたい本来の仏教では墓というものはないですからね。上座部仏教、つまり日本で言うところの小乗仏教のラオスにしろ、チベット仏教の流れを汲むブータンにしろ、墓がない。

墓とか墓石とかができたのは、何でなんでしょうかね。

養老:あれはおそらく中国文化の伝播で、祖先崇拝ですね。だから、例えばベトナムのように、中国文化の影響の強いところは墓があります。
 

:養老先生は、カイロの墓地は行かれたことはありますか。カイロ、ミラノ、ニューオーリンズが、その規模から世界三大墓地とか呼ばれているんですが。

養老:カイロの墓地は行ったことがないですね。

:そのカイロの墓地って、人間がそのまま住める家が並んでいるんです。

養老:家の形をしている、ということじゃなくて、大きさも家なんですか?

:死人がそのままそこに住めるように、ということで、家そのものなんです。もちろんお金がある人だけの墓地ですが、家がばーっと並んでいる光景は、墓地というよりは住宅地です。

養老:日本でも住宅分譲地で、墓地に見えるところがあるじゃない(笑)。

:そうか、分譲地ってやっぱり墓に限りなく近いものかもしれません。そのカイロの墓では、メンテナンスをしてないところに、ホームレスが住み付いていますが(笑)。

養老:そういう墓地の作り方に、エジプト人的な死生観を感じますね。ミイラを作って遺体を保存するように、いつでも戻ってこれるように、ということでしょう。

:家の形をしたお墓は、そういう思想の延長線上にあるんでしょうね。沖縄の墓も家の形をしていますよね。カイロほど大きくはありませんが。

養老:そう、あそこは洗骨の習慣があったから、骨を入れる甕が大きかったんですね。沖縄の亀甲墓は南アジアの文化ですね。ベトナムでも似た墓を見たことがありますし、中国の南の方も同じだと思う。奄美大島では洗骨の習慣が相当省略されて、風葬に近くなっていたと聞きましたが。

:風葬では、墓とか墓標とか、そういうものは建てないんでしょうか。

養老:風葬では一切ないですよ。もう、そのまま終わり。だから、海岸の洞窟が一種の共同墓地みたいな場所になっている。

鎌倉の海岸には人骨が埋まっている

日本でお墓が建つようになったのは何年ぐらいからでしょうか。

養老:ヨーロッパでもそうなんですが、時代によってずいぶん違うんです。古墳時代の日本は、偉い人には墓がありました。でも、日本の場合、中世の一般人は風葬がほとんどです。神奈川の鎌倉なんか典型で、ちょっと土地を掘ると骨だらけなんですよ。

:いっぱい出てくると聞きますね。

養老:いっぱい出てくる理由は、溶けないから。中世の時代は残った骨を海岸に埋めたの。海岸は中性の土壌だから、骨が溶けないで残るんです。でも、関東地方だったら関東ローム層という酸性の土壌なので、骨は全部溶けちゃう。

 で、ヨーロッパは溶けないので残る土壌。それで骨だらけになる。中世のヨーロッパも、よっぽど偉い人以外の個人の墓は珍しいんです。とにかく教会の共同墓地ですね。

 

映画で描かれたモーツァルトも、死後、けっこうぞんざいに共同墓地に埋められていました。

養老:中世のヨーロッパでは、教会とはつまり墓地のことだったんですよ。

隈さんがソウルでお墓を設計された時、こういうことはしてはいけない、みたいな、その国ならではの文化的なタブーはありましたか。

:うーん、特になかったですね。

養老:隈さんは日本でお墓の設計は手がけられていますか。

:おやじのお墓を、僕の事務所の隣にある梅窓院に作りました。そこには黒川紀章さんのお墓もあるんですけど。

養老:そうなんですか。

:黒川さんは、梅窓院の中でもいい区画を生きているうちに買われて、最初はすごくモダンな墓石を建てられたんです。でも、できあがったら自分でもデザインが気に入らなくて、もう1回費用をかけて建て直したとうかがっています。今建っているのは、まったくオーソドックスな昔ながらの墓石で、そこにお名前が書いてありますよ。

養老:あれだけ奇抜な建物を建てまくった人が。

:あれだけいろいろ建てて、最後にまったく普通のお墓を建てられた。

ミニマルデザインのお墓は“ごみ置き場”風

隈さんも確か、梅窓院にお墓を買われたとうかがっています。

:梅窓院の建物やホールを設計させていただいたよしみがあるし、事務所も梅窓院の隣ですし。うちのおやじの墓は、九州の大村にもともとあったのですが、参拝するには遠いので、だったら自分とこの事務所の隣がいいだろう、と思いまして。

さぞ、こだわったデザインでしょう。

:黒川さんと対極に、モダンデザインにこだわって建ててみました(笑)。

養老:どんなお墓なんですか。

:石で区画を四角く囲っただけのお墓です。普通のお墓は、一応モニュメントが建っているわけですが、僕は墓石も立てず、区画の周りを石で囲っただけだから、ちょっと間違うと、ごみ袋を置くような場所に見える(笑)。

お墓ではなく、ごみ置き場ですか。

:黒川さんみたいにひよらないで、モダニストとしてのデザインに徹しました(笑)。誰かが一度ごみを置いたら、そこはもうごみ置き場として認識されるようになるだろうな、と思っているんですが、まあ、幸い、まだ誰も置いてないから、お墓と認定されているようなものです。