はじめて読む聖書 という本より  旧約聖書は意外に新しかった | 猿の残日録

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いろんなことがあるが、人生短いから前だけを見たほうがいいですよ。江原啓之 今宵の格言

2014年8月発行 9人の人が書いておられる

今はこの本を含めて、大変衝撃的な良い本ばかり
なので、本を記録しておきたいが、内容が重くて
休み時間でも、どうにも続きを読む気になれないほど
重い本もあるのです

それで、気晴らしに家で麻雀をしていると
時間が経って日記にまとめられない日々です

今日も麻雀をしたのですが、最近三位が連続6回とか
4位にこそならないが、よくぞ残ったというのが続き
麻雀をするなということかと思っています

            

印象深いところを、抜粋しています

旧約聖書は意外に新しかった  秋吉輝雄 2011年死去

大畠先生は古代オリエントの宗教史がご専門だった
先生に入門を申し出たら、ヘブライ語、ギリシア語、
ラテン語をマスターせよ、それまでは学術書にいたるまで
日本語の本を読んではいけないと申し渡された

そこで、大学の構内に住み込んで、三つの言語を
同時進行で猛勉強し始めたんです

キリスト教学科だと、旧約聖書をやるならヘブライ語
新約聖書はギリシア語、神学をやりたいならギリシア語か
ラテン語を選択するんですが、それをぜんぶやれって
いうんですから、あれほど勉強したことはありません

大畠先生に会わなければ、聖書学をやることもなかったでしょう
僕は宗教を人間の問題として考えたかった
大畠先生はなぜ人間に宗教があるのかということを歴史的に
問うていた

それを見ていて、僕もこういう方法が向いていると思ったんです

ある問題が出されたときに、もともとはどうなっていたんだろうと
根源から歴史的に考えるのか、いまの問題を中心に応用篇
--いわば実存的・哲学的問題意識から考えるのか

僕は理科系か文科系かという選択肢ではなく、昔を辿るほうが
自分に向いていると思った

ところで、旧約聖書という呼び方そのものが、新約聖書を前提と
したものですね。つまり新約聖書が成立する前には旧約聖書は
存在しなかった

もちろん、イエス自身が深く読み込んでいて、新約聖書にも
しばしば引かれているヘブライ語の聖典はありました

けれどそれは旧約聖書として存在していたのではなく、いまも
昔もユダヤ教徒の聖典として用いられている「律法」「預言者」
「詩篇その他」という書物として存在していたんです

そして、それらの文書は、ユダヤ教の聖典としてまとめられる
ずっと昔から、ご先祖さまたちが残した遺産として彼らの前に
あった それがユダヤ教の聖典として、そして旧約聖書として
いまのかたちにまとめられたのは案外新しいことなんです

紀元前六世紀末のバビロン捕囚のころに、当時のユダヤ教徒
たちが解釈をしなおして、自由に配列し、彼らがいま存在する
意味を主張するためにつくりあげた

要するに、天地創造から語りはじめる旧約聖書も意外に新しかった

そんなふうに考えていくうち、どんどんキリスト教からユダヤ教、
そしてそれ以前へと遡ってしまい、大学構内に僕を住まわせてくださった
竹田鐵三先生には、「秋吉に古代オリエントをやらせるために部屋を
貸したら、キリスト教を飛び越してとうとうユダヤ教に行っちまった」と
冗談まじりに言われました

いまようやく、現在の方向に時間を少しもどしてみる気になっている
んですが、その前に命がつきるでしょう

修士論文では「サムエル記」をテーマにしました
メシア研究をやろうと思い--メシアは周知のようにキリストという
ギリシア語の元のヘブライ語ですが、イエス・キリストはダビデの子
として誕生するということになっているので--イエスの先祖と
されているダビデ王が登場する「サムエル記」を選んだんです

ところがヘブライ語の原典で読み始めると、わからないことが
多すぎる 一語しか使われていない言葉がいくつもあるからなんです

一語しかないと、どう訳していいかわからない
これをどう訳そうかと迷ったとき、安易にそこだけギリシア語訳とか
ラテン語訳からもらってきてはだめなんです

かっては信ずるものだった辞書も、そのころには、疑うもの、あるいは
自分でつくるものになっていた

大畠先生がヘブライ語とギリシア語とラテン語をぜんぶやれといった
意味がこのときよくわかりました

ヘブライ語聖書とその翻訳とされているギリシア語聖書ではまるで
内容がちがう 比較研究を行なうには、両方の言語の習得がどうしても
必要だったんです

聖書に清く正しいものを求めるとしたら、新約聖書のほうがいいでしょう
旧約聖書は、清く正しくないどころか、人間のあらゆる面が描かれているし
一つのストーリーを期待して読むと、平気で矛盾した記述が出てくる

たとえば旧約聖書のいちばん初め、創世記の一章から読み始めるとします
一章と二章は天地創造の物語です でもその話はつながっておらず
べつべつの創造物語が並置されているとしか思えない

まず一章二十七節には、天地創造の六日目になって、さいごに雌雄
(男女とは別のヘブライ語です)一対の人間が同時につくられたとある

ところが二章の四節以降では、ちりからまず男が創られて、男を慰めるための
いろいろな動物が創られ、最後に男にふさわしい助け手がいるだろうと女が
創られたという これがエヴァです

ここに出てくる、「男から取ったものだから、これを女と名づけよう」という箇所
も、意味がよくわからない

その疑問は、ヘブライ語という言葉を知ることによって、少しずつ解けていきました
ヘブライ語という言葉は、乱暴にいってしまうと、過去・現在・未来の区別がない、
時制のない言語なんです 天地創造の物語も、神のなさった過去の偉大なる
御わざというよりは、いままさに眼前で行われている感じなんですね
だから、文書をどんどん重ねていって、そこにいくら矛盾があっても気にしないんです
まだ結末が確定していない現在の話だから

一方、新約聖書の世界は、過去・現在・未来がはっきりと区別されたギリシア語を
背景とするヘレニズムの世界です

この一直線に流れる時間軸をもつギリシア語の世界だからこそ、天地創造から
始まるモーセ五書を指す「律法」が「旧い約束」、つまり旧約の世界と感じられた
のではないかと思います と同時に、イエスがもたらした世界を新しいものと認識
できたのでしょう

それから、男から取ったので女と名づけようという箇所の疑問は、ヘブライ語に
もどるとすぐ氷解します ヘブライ語ではここで用いられている男女は同語源
なんです
 「イーシュ(男/夫)から取られたのだからイッシャー(女/妻)と名づけよう」と

旧約聖書の各書はイエスの時代には、紀元前三~二世紀にヘブライ語から
ギリシア語に翻訳された~~~七十人訳聖書と呼ばれています~~~「律法」や
「預言者」が読まれていたのですが、「旧約聖書」という名称で存在していた
のではありません  でも、私たちは新約聖書によって、イエスの「律法」の
解釈は、ことごとく旧い「律法」を離れた新しいものであることを知っています

たとえば、「空の空、空の空、いっさいは空である」と嘆じ、悦楽も富も労苦も
いっさい「風を捕えるようなものである」と嘆く「伝道の書」は
「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思い煩うな
・・・一日の苦労はその日一日だけで十分である」という「マタイによる福音書」
の言葉があるおかげで、単なる嘆きではなく、私たちの嘆きを代弁するものと
なる

そしてその答えを私たちは、イエスの言葉に見出しているのではないでしょうか

「ヨナ書」も面白いですよ  たった四章の小さな話  ご先祖さまが歩いてきた道
を復唱するような、日本の昔話みたいなものです
でもヘブライ語聖書では、「預言者」のところに入っていて、なぜこれがと思いますよね

ヨナという人は、神への反逆児のような駄々っ子で、神の命令に背いて逃れようと
するうちに、大きな魚にのみこまれてしまう  でも悔い改めるなら、このようなもの
でも神は救ってくださるのだということを、天の声としてではなく、おどけた喜劇の
主人公のようなヨナを通して語っている
そういう意味でやはり特異な預言者なんです

「ヨブ記」も文学者たちをひきつけて、実存的な物語として読まれてきた
あれはユダヤ人ならみんなが知っているイスラエル史を語ったのでしょうから
そういう意味ではヨナと似ている気がします

それから活劇としては「出エジプト記」が面白い

先ほどの「伝道の書」ですが、新共同訳では「コレヘトの言葉」となっています
これはヘブライ語の「コレヘト」という言葉の意味が、「伝道者」という普通名詞
ではなく、個人名だろうという理解に変わったためです

「空の空」、いまの新共同訳では「なんという空しさ」と訳されているところですが
この原語の「ハヴェール」というのは、蒸気、霧のことです

つかもうとしてもつかめない  現代ヘブライ語では、「しまった」とか地団太を
踏むようなときに「ハヴェール」と言う  ですから人生というのはどうにも
捉えようがない、というような意味なんですね

さらにこの書には、「人間にとって最も良いのは、飲み食い、自分の労苦によって
魂を満足させること」、つまり楽しんでこの世の中を送るのがい
とも書かれています

できればそれが一番いい できないからこそ問題なのですが、僕はここがいちばん
好きだな

                   

この後も、衝撃的な話が、ありますが、長くなるので、またにします