池澤夏樹 読み終えることのない本
はじめて読む聖書 新潮新書より
印象に残ったところをつないでいます
全文ではありません
旧約聖書は、「古代ユダヤ文学全集」
あまりに雑多な寄せ集めで、大きすぎて要約ができない
新約聖書も内容が雑多で相互の関係がわかりにくくて
構成を頭に入れるだけで最初はたいへんなんです
旧約聖書の時代のユダヤの世界観では、すべてが
未決定という時間論のなかで推移していた
だから、いろいろな文書が積み重なっていったとき
いくら矛盾があってもかまわない
無矛盾性にこだわるというのは、ギリシャ哲学の姿勢なんですね
ユダヤ教の時間では、起こったことは全部、起こったことである
と同時に起こりつつあることなんだそうです
だから時間の地平において今につながっている
古典ヘブライ語という時制のない言葉で書かれたユダヤ教の聖典
つまりキリスト教でいう旧約聖書が、紀元前三~二世紀に
ギリシャ語という時制のある言葉に翻訳されたとき
その意味するところがずいぶん変わってしまった
事象が過去から未来へという時間の軸の上に配置されることになった
では、実際に僕が聖書をどう読んできたかというと
早い話がそのときどき参照的に読んだばかり
つまり文学的なところをつまみ食いするわけね
それはなぜかといえば、しょっちゅう引用されるからです
聖書というのはほんとに文学全集のようなもので
通読するのではなく、小説などに出てくるたびにちょっと覗いてみる
という読まれかたをする
信仰なき知識人であれば、日本だけじゃなくて欧米でさえそうだと思う
聖書を典拠としてきたのは文学だけではないでしょう
バッハのカンタータ「目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声」
といえば出典はマタイ伝25章の十人の乙女の話だとか
ゴーギャンの「ヤコブと天使の戦い」は創世記の32章だとか
実にたくさんのものが聖書につながっている
古代の小さな部族の信仰をめぐる文章が、これだけの量
まとまっていまに伝わっているのは奇跡ですよ
いまイタリア人が「おれはローマ人だ」と言ったって
笑ってしまうだけだし、万世一系なんていう日本だってせいぜい
千五百年でしょう
ユダヤ人の場合は、小さな部族が蹂躙されて散り散りになり
古代からずっとディアスポラ(離散したユダヤ人)でなかった時期はない
くらいなのに、にもかかわらず現在まで、「ユダヤ人」という意識を
保っている
その元にはユダヤ教の信仰があって、聖典、つまりキリスト教徒が
旧約聖書と呼ぶ大きな本が束ねの力になっている
そのあたりがやはりおもしろい
あとはエピソードをどれだけ知っているかですね
知っていれば、さまざまな文脈のなかでどう使われているかが
わかって面白い
ヨセフの事跡についての僕の知識は、たぶん聖書以上に
新潮社から全六冊で出ていた、トーマス・マンの
「ヨゼフとその兄弟たち」に依っていると思う
あるいは「クォ・ヴァディス」を読むという手もある
ローマに布教に行ったペトロが、あまりに迫害がひどく
ついに絶望してローマからすごすごと出ていく
アッピア街道をずっと南に歩いていくと、向こうから誰か来る
どこかで見た人だと思ったら、それがキリストなんです
びっくりして「Quo vadis,Domine? 主よいずこへ行きたまう」
と聞くと、「おまえがローマを見捨てたから、私はローマへ行って
もういっぺん十字架にかかろう」と言う
ペトロはそれでハッとして、ローマへもどったという伝説がある
作者はそれを踏まえたうえで、ローマの若き貴族と、クリスチャンの
清純な乙女の恋物語を展開する
そこにペトロニウスが出てきたりネロが出てきたりして
よくできたメロドラマですよ
文学のなかのパラフレーズやリライト、引用や隠喩などで使われてきた
聖書の言葉のおぼろな体系が僕のなかにはある
そうした断片的な知識の背後にすべてのオリジンである広大な倉庫の
ようなものがあるのだけれど、そこにいって全部見ようとはせずに
とりあえずは破片だけで満足している
だから僕の聖書に知識はとてもばらばらです
そういう、ある意味ではフラクタルな本なんですね
断片化されて細部が全体をなぞっているようなところがある
たまには、断片をちょっと気取って自分でも使ってみたりもする
たとえば、詩篇137の「バビロンの河のほとりに」の
「われら外邦(とつくに)にありていかでエホバの歌をうたはんや」
に目をつける
あれは強烈な恨みの言葉で、バビロン捕囚のときに連れていかれた
人々が、「ユダヤから来たというなら、おまえらの歌でも歌ってみな
聞いてやるから」とからかわれて、
「異国バビロンにいて、どうしてエホバの歌が歌えようか」と反発する
そのあとには、「彼らがやったように彼らの赤ん坊を岩に叩きつけて
殺してやりたい」という言葉が出てくる
僕はそれを読んで、異人種、異文化、異なる宗教の者たちが出会ったときに
そういう呪詛の言葉が出てくるのもわかるけれど、
しかし、そこで彼らはむしろ歌うべきだったんじゃないかと思った
それでロックシンガーを主人公にした自分の小説に
「バビロンに行きて歌え」という反語的なタイトルをつけたんです
旧約聖書の最初におかれたモーセ五書、つまり「律法」は
やっぱりダイナミックで面白い
神さまとサシでやりとりしながら、ほかの民族に対し自分たちを定義づける
われわれはこの神によって立つものであるという定義が非常にしっかり
していたから、いままでつづいたわけでしょう
カトリックとプロテスタントはずいぶん違いますよね
カトリックは必ずしも個人が聖書を持つ必要はない
むしろそれよりは、公教要理や聖歌や、連禱(れんとう)
といったもののほうが大事でしょう
これはギリシャ正教など東方教会でも同じです
ところがプロテスタントでは、教会の権威がカトリックより弱まり
「人」と「神」のダイレクトな契約になる
そのよりどころとして聖書は非常に重要なんです
1455年、グーテンベルクが発明した活版印刷によって
それまで写本だった聖書が初めて印刷されました
そのときはまだ大判(二つ折り版=フォリオ)だったけれど
のちにルターが今でいうA5判サイズの聖書をつくって
それが各家庭に普及していった
グーテンベルクの印刷術によって個人が聖書を所有できるように
ならなければ、プロテスタントはあんなに広まらなかったんじゃないか
僕はうかつなことに、フランスで暮らしてからようやく、
カトリックやギリシャ正教とプロテスタントの雰囲気の違いが
はっきりわかるようになった
そうしてみると、どうやらアメリカ人がいちばん聖書が好きらしい
イギリスの場合、アングリカン・チャーチ(英国国教会、聖公会)
というのはカトリックの要素を相当残しているし、なにしろ
イギリス人だから、「いや、僕らにはシェイクスピアがあるから」
とか言うかもしれない(笑)
聖書をいちばん使っているのもアメリカ文学じゃないですか
たとえばフォークナーの「アブサロム、アブサロム!」の元は
サムエル記ですね
あの小説を読むときは、父ダビデ王に反抗した悲劇的な息子を思い出す
最終的に父が勝つのだけれど、勝った父の、
「アブサロム、アブサロムよ、おまえの代わりに私が死ねばよかったのだ」
という嘆きを、あのアメリカ南部の物語に重ねて読む
フォークナーは旧約的ですね
メルヴィルの「白鯨」を読むときにも旧約聖書のイメージがずっとついて
まわる
自分の系譜でいえば、僕の祖母は聖公会の伝道師でした
だから父はたぶん幼児受洗していただろうけれど、そのあと一度
信仰を棄て、最終的にもういっぺんキリスト者にもどって死にました
だから「草の花」なんていうタイトルをつけたんですね
聖書は、テクストである以上に思考のフレームなんですよ
使えるわけ なにかを書こうとするとき
ダビデとゴリアテを土台にしたり、サムソンとデリラに重ねたり
見事な警句や寸言の宝庫である以上に、聖書はまずもっておもしろい
エピソードがぎっしり詰まった宝箱です
いちばん強調すべきはこの聖書の物語性かもしれない
文語訳の聖書というのが僕はいまでも好きですね
「まことに汝らに告ぐ、我と共に食する汝らの中(うち)の一人
われを賣らん」(マルコ伝福音書14-18)なんて
ぴしっと決まってるじゃないですか
心には訴えないかもしれないけれど、文学的にはリズムがいいし
字面はおどろおどろしいし(笑)、好きな本ですね
最初に読んだのは中学生くらいかな 1950年代です
口語訳が出たのが55年
当時評判がわるかったのを覚えてます
母も「文語のほうがきれいよ」と言っていた
もしもこれから初めて文語訳を読むなら、福音書ではなく
旧約聖書の箴言、雅歌、詩篇あたりがいいですね
そもそも詩ですから、文語訳のリズムが生きている
好きな個所、旧約ならばやはりダビデの生涯かな
サムエル記ですね
アブラハムやモーセはまだ神話の中の人でしょう
ダビデはもうすっかり人間で、苦労して王になって
部下の妻を横取りするような悪事を働いて、
さっきのアブサロムのようなこの世代の悲劇にも遭遇して
それでもユダヤ史で最も偉大な王になった
新約だと、福音書はルカ伝 四つの福音書の中で
いちばん人間らしい気がするんですよ
イエスの前、洗礼者ヨハネの誕生の予告から始まるあたりが
物語らしいし、少年イエスの話なんてルカにしかないでしょう
(ルカによる福音書2-41~52)
いまでも僕は聖書を読みつづけていると言っていいし
なにかのたびに開いてみるし、読み終わったといえる日は絶対にこないと
思います