夜の帳が降りた海岸で、老人の背中が闇に溶けていくのを見た。波のざわめきに紛れるように、老人は沖へと泳ぎ出していった。
「海の色の変わるところまで来ている」
父の運転する車は、夜の海岸線を必死に走った。叔父は助手席で沈黙を守り、後部座席では弟が不安げに膝を抱えている。車内には、言葉にできない緊張が満ちていた。
建物で急いで着替えを済ませ、弟と共に砂浜へ飛び出す。しかし、父と叔父の姿が見当たらない。一刻を争うはずなのに、なぜ?
その時、父の言葉が蘇った。「なるようにしかならない」
だが、それは諦めの言葉ではなかった。やがて遠くから叔父の声が響く。「見つけた!」
父と叔父が老人を両脇から支えながら、波打ち際をゆっくりと歩いてくる。老人の表情には、深い疲労と共に、どこか安らかな光が宿っていた。
「すまんな」と老人は私たちに向かって微笑んだ。「あそこまで行けば、きっと会えると思ったんだ」
誰もが察していた。老人は、三年前に亡くなった妻を追いかけていたのだと。
「海の色が変わるところで、おばあちゃんに会えましたか?」私は小さな声で尋ねた。
老人は首を横に振った。「いや、でも分かったんだ。まだ私の時じゃないってね」
翌朝、老人は普段通り、近所の子供たちに釣りを教えていた。その姿は、あの夜よりもずっと力強く見えた。
父の「なるようにしかならない」という言葉は、実は「だからこそ、今できることを精一杯やる」という意味だったのだと、私はようやく理解した。
海の色は、人の心のように日々変化する。けれど、その変化の先には必ず、新しい光が待っているのだと信じている。
