「400万両」以上の“徳川御用金”が日本近海に沈んでいる⁉
徳川幕府の御用金も海に沈んでいるという話はご存じだろうか。
これにはいくつか説があるので、ここではそれを順番に紹介していこう。
まずは、横須賀沖に沈んでいるという説である。
これは、陸奥国(むつのくに)仙台藩の「早丸」は、
徳川幕府が中国の上海に送るための金を積んで横浜港を立ったがその直後暴風に見舞われ、
横須賀市の海獺島(あしかしま)・笠島島あたりで座礁し、沈んでしまった。
「早丸」はイギリスで製造された最新型の蒸気船で、仙台藩は藩士の技術習得のために購入。
開国後横浜で活動を始めていた外国の銀行が当時送金用に利用していたメキシコ銀貨6万ドル、
国内で産出された銅624トン、陸奥産の青銅製品240トン分、仙台藩の53万両、
幕府の御用金400万両のほかに大量の武器や生糸などを満載していたという。
なぜ、このように大量の荷物を海外へと運ぼうとしたのかというと、
新政府に接収されるのを防ぎ、幕府再興のための資金にするためとか、
海外に亡命幕府を樹立するためともいわれている。
この時、乗員14人は近隣の住民たちによって救助されたが、
多くの人が命を落とし、久里浜の寺に埋葬されたという。
昭和末期に私財を投げ打って調査・引き揚げを行った人がいたが、
大した物は見つからなかったという。それでも、調査を試みる人は後を絶たないという。
幕府の海軍副総裁だった榎本武揚(えのもとたけあき)が、
大坂城内にあった18万両を輸送船「美加保丸」に載せて蝦夷地(えぞち)に運ぼうとしたところ、
千葉県の犬吠埼(いぬぼうさき)沖で座礁したのだという。
慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍と新政府軍が京都郊外の伏見の鳥羽街道で衝突し、
戊辰戦争が勃発。このとき、大坂城にいた十五代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、
軍艦「開陽丸」で江戸へと逃げ帰った。
そのために書類や荷物を整理していた勘定吟味役の小野友五郎(おのともごろう)が、
「大坂城内に18万両あるが、取り出すのも運ぶのも大変だ。
よい案はないか」と榎本に話かけたという。
榎本は、幕府の輸送船「富士丸」にこの18万両を載せて江戸まで運んだ。
しかし、後に新政府に接収された「富士丸」の船内からは大金は発見されなかった。
そこで、江戸に到着後徹底抗戦を唱え、
幕府の軍艦「開陽丸」や輸送船「美加保丸」計8隻で北へ向かった榎本が、
御用金を運んだのだといわれるようになった。
「美加保丸」が沈んだところは地元の漁船が近づくのを嫌う難所。
昭和46年(1971)に船体の一部や大砲の弾などが引き挙げられたが、
ここでも御用金は見つからなかった。
さて、榎本が北に向かった時に、輸送船ではなく、
旗艦であった「開陽丸」に積み込んだという説もある。
大切な御用金だからこそ、旗艦に載せたのだという。
この開陽丸は幕府が慶応元年(1865)にオランダから購入した最新鋭の軍艦である。
開陽丸は無事に目的地の蝦夷地に到着。
しかし、当時江差港は浅く、開陽丸は着岸することができない。
そうこうしているうちに、強風にあおられて座礁、ただし、沈むまでだいぶ時間があったため、
多くの荷物が陸揚げされ、乗員も全員無事であった。
この時に御用金があったのだとしたら運び出すことは可能であったはずだが、
なぜか地元では開陽丸は御用金とともに海に沈んでいると言い伝えられた。
そして、昭和49年(1974)から文化庁・北海道庁・北海道開発庁などによって学術調査が行われ、
3万3000点余りが引き上げられたが、それらしいものは発見されなかった。
徹底抗戦を主張し、それを実践したのには、
軍資金の当てがあったからだ思われているのだろうか。
海に沈んだとされる徳川御用金伝説には榎本武揚の姿がちらつく。
蝦夷地についた榎本らは五稜郭に拠り、蝦夷共和国と呼ばれる新しい政権を打ち立てる。
榎本は選挙によりその総裁に選ばれた。
この政権を運営するのに徳川御用金が使われたのであろうか。
榎本武揚/国立国会図書館蔵
徳川御用金、果てしなき夢の彼方へ...







