コロンブスが新大陸を発見した航海に出たのは、マルコポーロの東方見聞録を読み、
アジアのスパイスや黄金を手に入れるためでした。
特に憧れていたのは、黄金郷と描かれたジパング(日本)に行くことでした。
当時は地球平面説に代わり「地球球体説」が信じられるようになっていました。
そのためコロンブスは大西洋を西に進んで行けば地球を一周して、
反対側のアジアにたどり着くことができると考えたのでした。
「コロンブス」と聞いて、みなさんはどのようなイメージが浮かぶだろうか。
恐らく大半の方が「アメリカ大陸を発見した」という偉業を挙げるだろう。
では、彼は英雄なのだろうか?
探検家として輝かしい偉業を讃えられる一方、
その背後には陰惨な奴隷文化、先住民への差別、侵略といった闇が潜んでいる。
コロンブスという人物の功罪を正しく理解することが重要だ。
「新大陸」を発見した一行のモニュメント。 ポルトガル
■コロンブスとは何者か?
定説では、クリストファー・コロンブスは、
1451年に現在ジェノヴァ共和国で誕生したとされている。
現在のイタリア北部で栄えたこの商業都市国家は、
地中海を中心とした交易の要衝として繁栄を極めていた。
ちなみに当時の日本は室町幕府8代将軍・足利義政の時代である。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』に記載された「黄金の国・ジパング」に憧れ、
また出身地での経験などもあってアジアとの交易に希望を見出していたコロンブスは、
多くの有識者との交流を経て、やがて「西廻り航路でアジアに向かう」という計画を立てる。
紆余曲折を経て、1492年4月、スペイン・グラナダ郊外にあるサンタ・フェにて、
コロンブスはスペイン王室と
「発見した土地の終身提督になること」
「提督領から得た純益の10%をコロンブスの取り分にすること」
「提督領から得た物品の交易において生じる紛争はコロンブスが裁判権を持つこと」
などを取り決めた契約を交わした。
■「新大陸」で強奪と虐殺を繰り返した「悪逆提督」
1492年8月、コロンブスはインドを目指して出航。そして10月11日、水夫が陸地を発見し、
翌朝上陸したその島に「サン・サルバドル島」と命名した。
先住民らは一行を歓待したが、
それに対してコロンブスは略奪と虐殺という最悪の形で応えた。
一行はさらにキューバ島を経てイスパニョーラ島と名付けた島まで進出。
その後一旦スペインへ帰還した。
カリブ海域にあるこれらの島々が今も「西インド諸島」と呼ばれている所以はここにある。
先住民から強奪した金や宝石などを持って帰国したコロンブスは、
契約に従ってその10分の1を獲得。さらに、陸地発見の報奨金まで手にした。
そして調査報告とともに次回の航海目標として、
「ありったけの金と奴隷を連れて帰る」と言ったという。
1493年9月、2回目の航海に出たコロンブスは再びドミニカ島と名付けた島に到着した。
そこからは筆舌に尽くしがたい悪行を重ねることになる。
黄金に執着していた彼は、装甲兵や騎兵隊、軍用犬からなる軍団を率いて、
先住民が暮らす土地を蹂躙し、略奪、虐殺、強姦、放火など悪逆非道な行動を繰り返した。
そして、抵抗する先住民たちを奴隷として大勢スペインに連れ帰った。
このコロンブスの航海によって、東西で多くの食料品などが行き交った。
一行はアメリカ大陸からジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、ピーマン、トウモロコシ、
トマト、イチゴ、パパイヤ、唐辛子、落花生、カカオなどを持ち帰っている。
反対に、小麦や馬などがヨーロッパから入ってきた。
しかし、同時に天然痘やインフルエンザ、ペストといった病気まで持ち込まれ、
先住民を苦しめたのである。虐殺や持ち込まれた病気による犠牲者は、
一説によると5万人を超えるといわれている。
(ディオスコロ・プエブラ「コロンブスの新大陸上陸」プラド美術館)
コロンブスの非道な行いに鉄槌をくだしたのが、スペイン女王イサベル1世だった。
スペイン王室は現地査察官を派遣し、コロンブスの悪行を目の当たりにすると、
弟のバルトロメオと共に逮捕している。
そして監禁した後、1500年には本国に強制送還した。
必死の釈明によって投獄を免れたコロンブスだったが、提督の地位などはすべて剥奪され、
王室の信頼を完全に失った。
それでも黄金に執着し続けたコロンブスは再びアメリカ大陸に戻ろうとするも、
イスパニョーラ島への入港が許されず、海域を半年さまよった挙句に難破。
失意のうちに帰国し、1506年5月20日に病没した。
大西洋横断という偉業を成し遂げた英雄は、
こうして最悪の虐殺者として生涯に幕を閉じることになったのだった。
Christopher Columbus
Cristoforo Colombo
Cristóbal Colón