歴史の零れ話...唐人お吉 | 春夏秋冬✦浪漫百景

春夏秋冬✦浪漫百景

季節の移ろいの中で...
歌と画像で綴る心ときめく東京千夜一夜物語

唐人お吉

 

 幕末という名の風雲は、その時代を生きた多くの人間を呑み込み、彼らの人生を変えました。

時代が違えば名もなき寺子屋の先生で終わったような人物が攘夷志士になり、

泰平の世であれば良い政治家だった人物が難局を乗り越えられずに、

暗殺や失脚に追い込まれました。

下田の芸者、斎藤きちの場合もそうでした。

彼女は幕末に生まれたがために時代の波に巻き込まれ、

人々からこう呼ばれるようになります。「唐人お吉」と。

 

 きちの人生については多くの小説や映画などが発表されていますが、

真偽が混同されて伝わり、いまだ真相は分かりません。

今回は「唐人お吉」について記述した最初期の文献、

昭和5年出版の村松春水「実話 唐人お吉」に沿い、

彼女の数奇で哀切な一生を紐解きます。

 

 天保12年、きちは下田・坂下町の船大工の家に生まれました。

7歳から養母に芸を仕込まれたきちは声が良く、

特に十八番の新内節「明烏」を唄わせれば下田で右に出るものはなし。

 安政元年、

14歳になる頃には「新内お吉」「明烏のお吉」と呼ばれる有名芸妓になっていました。

同年3月、日本がアメリカと日米和親条約を結び、きちの暮らす下田が開港されると、

彼女の怒涛の人生が幕を開きます。

 

 同年11月、開港されたばかりの町に大地震と津波が襲来。

下田は壊滅状態、きちは家も家族も失い、絶望の淵に追いやられます。

そんな時、彼女に光を投げかけたのは幼なじみの少年、鶴松でした。

彼は立派な船大工になっており、自腹できちに急ごしらえの家を作り、

お金も貸してくれたのです。きちは鶴松に救われ、なんとか生命を繋ぐ事ができました。

 しかし不幸は続き、翌安政2年には養母が病死。きちは15歳で天涯孤独になり、

ふたたび芸妓になります。深い悲しみを抱えつつも、気丈に働くきち。

玉のような美しさと健気さで、下田の役人の宴席には必ず呼ばれる人気芸妓に成長します。

そして一方では、幼なじみの鶴松に恩金の借りを完済。

2人は互いの想いを打ち明け、恋仲になりました。

 安政3年7月、アメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスが、

日米修好通商条約を締結すべく、下田に着任。

一介の芸妓には関係がないように思えるこの事が、きちの人生を大きく変えました。

 翌安政4年、下田で一番の芸妓だったきちは、

17歳にしてアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスの相手に抜擢されます。

ハリスが用意したのは支度金25両、1年の給金120両の大金。

顔なじみの下田の役人たちに、

「国難を救うと思って、身を捧げてくれ」と頼み込まれ、きちは泣く泣く「参ります,,,」

と了承しました。

 

お吉自筆の給金請書 出典:村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵

 

 こうしてきちは、恋人鶴松に別れを告げ、

ハリスの待つ米国領事館・玉泉寺に向かったのです。

下田から少し離れた柿崎村の玉泉寺は、コウモリやネズミの棲む、それはひどい寺でした。

当時は流行歌の替え歌が流行っており、お吉が作ったとされる歌がこちら。

「行こか柿崎 帰ろか下田 思い惑うよ間戸が浜」

間戸が浜とは、柿崎領事館と下田のちょうど中間の地名。

決して喜んでハリスの元に行った訳ではないお吉は、

領事館へ向かう道中に悲しげにこの歌を歌ったのでした。

【1930年(昭和5年)製作・公開、日活太秦撮影所製作、日活配給日本のサイレント映画】

 

 実際に柿崎のアメリカ領事館に到着してみると、ハリスは病気で、

芸妓遊びどころではありませんでした。きちは驚いた事でしょう。

きちがどのくらいの期間ハリスの元に通ったかは、諸説あります。

3ヶ月世話をした説、1週間で暇を出された説、

奉行所の記録によると、たったの3日間だったとか。

 いずれにしてもわずかな期間ですが、きちは病気のハリスを寝ずに看病し、

ハリスが好きな牛乳を苦心して手に入れ大層喜ばせたと伝わります。

きちは、相手が外国人だからと言って対応を疎かにしない、

心優しく芯の強い女性だったのです。

 しかし周りの目はそうは見ません。

毎日美しく着飾り化粧したきちが、豪華な駕籠に乗りこみ、

武士にまで挨拶を受けて領事館へ向かう姿を見た町の人々は、

彼女が内心どんな心細い気持ちでいるか知るわけもなく、

偏見と嫉妬で彼女をこう呼ぶようになります。

「唐人お吉」と。

同時に、きちが高飛車に「日本人なんか相手にしません」

と言ったという根も葉もない噂まで広まってしまいます。

そのせいでハリスの看病の役目を解かれた後も客が付かなくなってしまったきちは、

現実から目を背けるように酒に溺れる日が増えました。

そして20歳の頃、ついに人々の前から姿を消します。

 

 

 時は流れ、御一新後の明治元年。

ただ1人、姿を消してしまったきちを探し続けていた人物がいました。

その人こそかつての想い人、鶴松あらため又五郎。

想いは通じ、彼はついにきちを横浜で見つけ出します。

その時又五郎32歳、きちは28歳になっていました。

2人は結婚し、しばらく横浜で暮らしたのち、互いの故郷である下田の大工町に家を持ちます。

きちは夢だった新造らしい丸髷を結い、人生の中で最もきらめく時を過ごします。

 しかし、神様は意地悪です。これでハッピーエンドかと思いきや、きちの酒乱が再発し、

明治7年に2人は別れてしまうのです。直後、又五郎は謎の死を遂げます。

 

 それからのきちは、自分の事を「生きた屍」と言うようになり、芸者、髪結い屋を経て、

安直楼という小料理屋を開業するも上手くいかずに閉店。

やはり心のどこかでは又五郎の事を忘れられずにいたのでしょう。

 

安直楼 (Wikipediaより)

 

 きち47歳の時、長年の飲酒が高じてか脳卒中で倒れ、体がいうことをきかなくなります。

借金も返せず、乞食のような風体になったきちは、

明治23年、稲生沢川に身投げします。時にお吉50歳。

 彼女の遺書には、こうしたためられていました。

「あわれな女と思し召し、私の亡き後の香華の手向けをご無心申し上げます。

さらばお達者に過ごされませ。おさらば 乞食婆より」

 

 思いがけないかたちで幕末の波に呑みこまれた佳人は、

波路の間の浮き藻の花と消えたのでした。

この話を聞くたびに、幕末で犠牲になったのは有名な志士だけではなく、

きちをはじめとする名もなき庶民の人々でもあったということを、

私たちは忘れてはいけないと思うのです。

 

参考文献: 村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵
 

「唐人お吉記念館」

静岡県下田市にある宝福寺の敷地内で、

幕末に米国総領事を務めたタウンゼント・ハリスに仕えた、

お吉に関する資料を展示する記念館です。

 

  • 住所:静岡県下田市一丁目18-26
  • 電話:0558-22-0960
  • 最寄り駅:伊豆急下田駅[出口]徒歩5分