寫眞繪畫#名所江戸百景~壱拾壱圖 | 春夏秋冬✦浪漫百景

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歌と画像で綴る心ときめく東京千夜一夜物語

寫眞繪畫

江戸百景名所壱拾壱圖

山下町日比谷さくら田

山下町の山下門から、日比谷公園方角を望んだ図。

現在の帝国ホテル付近がこの辺りで、周辺の濠は全て埋立てられたが、

近くの日比谷公園内には石垣の一部が残っている。

外桜田はこの辺りから愛宕までの広い地域を指した。

 

永代橋佃しま

冬の佃島沖で夜間に行われた白魚漁を描いた図。

かがり火を焚きながら行われる様は、江戸の風物詩の一つであった。

ここで捕れたものは特に美味で将軍に献上されたという。

画面左端の柱が永代橋の橋脚部分である。

 

 

上野清水堂不忍池

場所は現在の東京都台東区上野公園の中にある不忍池を描いたもの。

上野は今も花見で有名、当時も江戸一番の桜の名所。

上野恩賜公園に建つ清水観音堂から眺めた不忍池が描かれている。

堂の鮮やかな朱色と桜のピンクのバランスが美しい。

 

 

真崎辺りより水神の森内川関谷の里を見る圖

現在の東京都荒川区南千住にあった店、

甲子屋(きのえねや)の2階から描いた構図。

甲子屋は隅田川畔の真崎にあった有名な田楽茶屋。
丸い窓からのぞく梅と室内の椿との対比もとても洒落た構図。

奥に見える山は、浮世絵では富士山の次によく描かれる筑波山。

男体山と女体山と二つの峰が目印。

 

 

逆井の渡し

下総(千葉県北部の旧称)へ向かう佐倉街道の中川の渡し場

「逆井のわたし」を描いた図。

この場所まで潮が逆流してきたのが由来で、

周辺は白鷺が舞い降りるのどかな田園風景であった。

対岸の小松村は漬け菜「小松菜」の産地として有名。

 

 

利根川ばらばら松

「ばらばら松」は場所が確定されていない。

利根川(今の旧江戸川)の河口、または中川等諸説がある。

ただし当時としては有名であった事が文献等で確認されている。

投網は名品といわれた「利根川鯉」を捕るものか。

 

 

市中繁栄七夕祭り

江戸期の七夕は紙の短冊だけではなく、ひょうたんや西瓜、

紙製の盃や硯等を軒高くかかげた。空を覆う様な見事な光景だったという。

本図は八重洲辺りにあった南伝馬町の七夕の日の有り様を描いたものだ。

遠方右端には江戸城の一部が見える。

 

 

神田紺屋町

藍染めの職人が集住したのが「紺屋町」。

染め上げた生地は、屋根の上の干し場で乾燥させた。

生地の白地部分には繊細な特殊技法の布目摺りが施されている。

神田の町名には他に鍛冶町=鋳物、

須田町=水菓子果物、乗物町=駕篭等がある。

 

 

京橋竹がし

日本橋と並び最も古く、

擬宝珠のある欄干をもつ格式高い京橋の先には竹の問屋が並んでいる。

正月飾り・七夕飾り・竹垣・竹細工など、

現在で考えられないほどの需要が江戸にはあった。

誇張ともいえるこの図は秋月に照らされた竹がしの風情を、

印象的に捉えています。

月明かりの情景は広重の最も得意とするところで詩情溢れる秀作です。

 


吉原日本堤

日本堤は元々隅田川の治水のために築かれたものだ。

郊外に位置する吉原へは船で隅田川を北上し、日本堤を通るのが一般的だ。

堤の上には遊客をあてこんだ茶店が軒を連ねたのが本図でも判る。

右遠方に描かれているのが不夜城・吉原だ。

 

王子装束ゑの木大晦日の狐火

「大晦日の夜、王子の装束榎のもとに稲荷神の使いである狐が集まり、

装束を改めて王子稲荷へ参詣する。

人々は狐の発する狐火の数からその年の豊凶を占う。」

という狐火伝承を幻想的に描いた初代歌川広重の代表作

 

 

広重の死絵(3代豊国筆、安政5年(1858年))

 

歌川 広重(うたがわ ひろしげ)

寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)

江戸時代の浮世絵師。本名は安藤重右衛門。

幼名を徳太郎、のち重右衛門、鉄蔵また徳兵衛とも称した。

「安藤広重」と呼ばれたこともあるが、安藤は本姓・広重は号であり、

両者を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。

江戸の定火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。

風景を描いた木版画で大人気の画家となり、

ゴッホやモネなどの西洋の画家にも影響を与えた。

 

                  代表作
 
『東海道五十三次』 『名所江戸百景』

 

流行の疫病(コレラ)により安政5年(1858年)9月6日61歳で没。

墓所は東京の足立区にある禅宗東岳寺である。

辞世の句 

東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん

                 (「死んだら西方浄土の名所を見てまわりたい」の意)

初代広重墓及び記念碑