東京漫遊記#内藤新宿 | 春夏秋冬✦浪漫百景

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内藤新宿

 

江戸時代に設けられた宿場の一つ。

甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、

宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。

 

現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から新宿二丁目・三丁目の一帯にあたる。

東海道の品川宿・中山道の板橋宿・日光街道(奥州街道)の千住宿と並んで、

江戸四宿と呼ばれた。地名から四谷新宿と呼ばれることもある。

 

宿場内では次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所(色町)としても賑わっていった。

宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、

客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。

享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っている。

吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象にもなり、

これが宿場廃止となった原因の一つという。

また、元禄15年(1702年)2月と正徳6年(1716年)正月には、

火災で大きな被害を出している。

 

内藤新宿の復元模型(新宿歴史博物館蔵)。
画像奥が東で、四谷大木戸に至る。手前の分岐点が新宿追分。

 

 享保3年(1718年)10月、内藤新宿は幕府によって廃止される。

宿場開設より20年足らずでの決定であった。

このため、高井戸宿が再び甲州街道最初の宿場となった。

廃止により旅籠屋の2階部分を撤去することが命じられ、

宿場としての機能は失われた。

町そのものは存続したが、賑わいが消え人口も減少していくことになる。

 

 明和9年(1772年)4月、内藤新宿が再開される。

50数年ぶりの再開であり、「明和の立ち返り駅」と呼ばれた。

これまで却下され続けた再開が認められた背景には、

品川宿・板橋宿・千住宿の財政悪化があった。

各街道で公用の通行量が増加し、

宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっていたのである。

 

 幕府は明和元年(1764年)に、

それまで「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制を緩め、

宿場全体で上限を決める形式に変更。

品川宿は500人、板橋宿・千住宿は150人までと定められ、

結果として飯盛女の大幅な増員が認められた。

これにより、各宿場の財政は好転し、同時に内藤新宿再開の障害も消滅した。

また、10代将軍・徳川家治の治世に移り、

消費拡大政策を推進する田沼意次が幕府内で実権を握りつつあったことも、

再開に至る背景にあるとする説もある。

 

宿場の再開により町は賑わいを取り戻し、

文化5年(1808年)には旅籠屋が50軒・引手茶屋80軒との記録が残る。

江戸四宿の中でも品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続いた。

現在では内藤新宿という地名は残っていないが、

新宿の名はこの内藤新宿に由来するものである。

 

四ツ谷内藤新宿今昔