清少納言は紫式部と会ったことがない」説は本当なのか?
大河ドラマ『光る君へ』では仲良く交流している清少納言と紫式部だが、
実際は宮仕えの時期が重なっておらず、
二人は顔を合わせたこともなかったというのが通説である。
しかし、本当に1パーセントも可能性がないのだろうか?
また、清少納言は和泉式部、藤原道綱母、菅原孝標女らともある縁でつながっていたのだが、
どのような縁だったのだろうか。
■清少納言の男性遍歴
まずは清少納言の生い立ちを見ていこう。生まれは、およそ966年頃のことか。
受領階級で、歌人としても知られた清原元輔が父であった。
父が三十六歌仙の一人にも数えられた名歌人とあって、
清少納言(諾子と呼ばれていたとの説も)も、幼い頃から和歌の薫陶を受けていたと思われる。
その後、父の任地である周防へ船で向かったことも、よく知られるところである。
981年頃、藤原斉信の家司であった橘則光(母は花山天皇の乳母)と結婚する(15歳)。
しかし、998年頃か、あるいはそれ以前に、
「何ともなくて すこし仲あしうなって」
(これと言う理由もないものの、仲が悪くなって)別れたようである(32歳)。
のちに摂津守・藤原棟世と再婚。藤原実方との関係も指摘されているほどだから、
男性遍歴の方は少なくなかったようだ。
■紫式部とのつながり
実方は、20人もの女性と関係があったともいわれるほどのプレーボーイだったようで、
一説によれば、光源氏のモデルと言われることもある。
『源氏物語』の作者である紫式部とも、十分、繋がりがあったと考えられるのだ。
紫式部が道長の長女・彰子に仕え始めたのは1006年頃のことであるが、
清少納言が道隆の長女・定子に仕えるようになったのは、
その十数年前の993年頃のことだとみられている。
数年後の1000年に定子が亡くなったことで、宮仕えを辞しているから、
紫式部と清少納言が顔をあわせることはなかったというのが通説である。
ただし、一旦辞して夫・棟世の任国・摂津でしばらく暮らしたものの、
再度要請を受けて宮仕えを再開したのではないかと見られることもある。
これが事実なら、二人の面識が全くなかったと断言はできない。
■女だと証明するため、陰部を見せつけた?
清少納言が宮仕えをいつ終えたのかも、その後の消息も明確ではないが、
兄である清原致信との関わり合いで特筆すべき逸話が伝えられているので、
ひと言書き添えておきたい。それが、1017年のことであった。
この兄・致信とは、
道長四天王として武芸に秀でた人物としても知られた藤原保昌の郎党であった。
何がしの利権をめぐる闘争に巻き込まれたようで、
源頼親(頼光の兄弟)が送り込んだ頼光四天王に殺害されている。
その殺害現場に、あろうことか尼僧姿で同宿していたのが、妹の清少納言であった。
兄に続いて彼女も殺されかけたが、ここで機転を利かせて起こした行動が、
なんと、自身の陰部をさらけ出して女であることを証明しようというものであった。
尼僧姿では男女の区別も付きにくかったのだろう。
女なら殺されずに済むと考えたようである。
その咄嗟の判断が功を奏して、命拾いしたのだとか。
実話かは疑わしいが、機転の良さばかりか、大胆さにも驚かされてしまう。
■和泉式部らとのつながり
さて、ここまで読んできて、アッと気が付いた方もおられるのではないだろうか。
殺された兄・致信が仕えた保昌というのが、かの和泉式部の夫であったことを。
つまり、清少納言は和泉式部とも、不思議な縁で繋がっていたことになるのだ。
また、清少納言の姉が藤原道綱母の兄・理能の妻だったから、
『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母とも親戚だったということになりそう。
さらには、『更級日記』の著者・菅原孝標女が道綱母の姪だったことも書き添えておこう。
つまり、清少納言は、前述の紫式部ばかりか、和泉式部、藤原道綱母、菅原孝標女など、
当時活躍した女流作家たちとも、不思議な縁で繋がっていたことになるのだ。