歴史の零れ話...醍醐の花見 | 春夏秋冬✦浪漫百景

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3月15日は、

豊臣秀吉が京・醍醐寺で「醍醐の花見」を行なった日。

(新暦に直せば4月20日のこと)

 

慶長3年3月15日(1598年4月20日)、

京の醍醐寺三宝院裏で豊臣秀吉が、

豊臣秀頼、北政所、淀殿、諸大名を集めて大規模な花見を実施。


輿(こし)の順は、最初に北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、

3番目に松の丸殿(京極竜子)、4番目に三の丸殿(信長娘)、

5番目に加賀殿(前田利家娘)、

その後に前田利家正室・まつが続きました。


醍醐寺では新暦に置き換え、

毎年4月の第2日曜日に『豊太閤花見行列』を実施しています。
染井吉野がまだ開発されていない当時の花見は、

山桜を愛でるのが一般的。

 

歴代座主が居住し、醍醐寺の本坊的な存在である三宝院の庭は、

豊臣秀吉が『醍醐の花見』に際して自ら基本設計をしたと伝えられる庭で、

国の特別史跡・特別名勝に指定されています。

豊臣秀吉の「醍醐の花見」で知られる醍醐寺(だいごじ)の塔頭(たっちゅう)で、

永久3年(1115年)、醍醐寺第14世座主勝覚(しょうがく)僧正が、

創建したのが現在の三宝院(当時は金剛輪院)。

 

応仁の乱の戦火で焼失しますが、慶長3年(1598年)、

豊臣秀吉の援助で再興。秀吉と僧・義演(ぎえん)は、

見事な回遊式庭園を築いています。

 

国宝の唐門

 

庭園を一望にする表書院と唐門は国宝になっています。
回遊式庭園でありながら、

書院から鑑賞するという心憎い設計となっている三宝院庭園は、

秀吉自らが「縄張り」(設計)したと伝えられています。

 

秀吉は、「醍醐の花見」以前にもたびたび三宝院を訪れ、

「醍醐の花見」の前年には家康を連れて花見を楽しんでいますが、

豪壮で変化に富んだ庭を見れば、秀吉の思い入れのほども伝わってきます。
さらに花見以後も庭の改修工事は続き、
秀吉没後も工事は続けられ、

工事終了は豊臣秀吉・秀頼親子の援助を受けて、

三宝院を復興させた義演が没する元和10年(1624年)でした。

 

中島架けられた石橋、木橋、土橋や滝組を2段から3段へと変え、

シュロやゴヨウマツなどの常緑樹を主体とした樹木を植えたのも、

義演の指示だということが義演が残した記録から判明しています。

         醍醐寺三宝院

文禄3年2月27日(1594年4月17日)の豊富秀吉の吉野での花見は、

吉水院(現在の吉水神社)が本陣となり、

豊臣秀吉自らが基本設計を行なったと伝えられる神仙思想による

「不老長寿」を願う鶴亀蓬莱の庭が残されています。

その4年後の慶長3年3月15日(1598年4月20日)、

醍醐寺三宝院を中心に行なわれたのが「醍醐の花見」。

 

屏風には,

大きな桜の木に抱かれるように貴婦人が,

右から3番目のパネルに描かれています。

一方左の屏風にも,大きな八角堂に座っている貴公子が,

こちらも左から3番目のパネルに描かれています。

この貴婦人と貴公子は,

全体的にはちょうど左右のバランスがとれるように配置されており,

自然と二人が主人公であることを認識できるように表現されています。

 

あの伝説の花見が執り行われた日より10年くらい経った作品であり,

花見の宴で一方の主役が貴婦人,もう一方の主役が貴公子であれば,

それはもう「醍醐の花見」の淀殿と,豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼で決まり,

となるのです。

 

 

慶長三年(1598)三月十五日、

豊臣秀吉は醍醐寺において花見を行いました。

その様子について醍醐寺三宝院門跡義演准后は

日記に次のように記しています(「義演准后日記」以下「義」、同日条)。

義演准后日記

今日太閤秀吉が(醍醐寺に)お渡りになられた。

(淀公や北政所を始めとする)「女中」らもおのおのお成りになり、

終日桜を御覧になられた。

路次や茶屋などの贅を尽くしたあり様は、

言葉では言い尽くしがたいほどである。

何の問題もなく、無事に(太閤たちは)お帰りになられた。