歴史の零れ話...もし二・二六事件が成功していたら? | 春夏秋冬✦浪漫百景

春夏秋冬✦浪漫百景

季節の移ろいの中で...
歌と画像で綴る心ときめく東京千夜一夜物語

二・二六事件とは...

二・二六事件発生時の軍人会館(のちの九段会館)前の様子

二・二六事件は、昭和のはじめに起こった近代日本において最大の軍事クーデターであり、

激動の歴史の中で昭和天皇が特に強い思いを抱いていた事件といわれます。

 

1936(昭和11)年2月26日に陸軍の皇道派と呼ばれる青年将校が、

中心となって起こしたクーデターです。約1400名の兵士が首相官邸や警視庁、

朝日新聞社などを襲撃し、政府要人や警察官など数名を殺害、重傷を負わせました。

永田町一帯を兵士が占拠し、戒厳令が敷かれるなど一時は騒然とした状況となりましたが、

29日には反乱軍として鎮圧されました。

 

 事件の首謀者とされている青年将校は、野中四郎陸軍歩兵大尉、香田清貞陸軍歩兵大尉、

安藤輝三陸軍歩兵大尉、栗原安秀陸軍歩兵中尉、磯部浅一元陸軍一等主計らで、

野中は自決、安藤ら3名は裁判後に死刑となっています。

 

 

二・二六事件について書かれた新聞各社の号外

反乱を起こした青年将校

栗原安秀歩兵中尉(中央のマント姿)
 
彼らの目的は、天皇中心の軍事政権を打ち立てることでした。
当時、昭和恐慌の煽りを受けて貧富の差が拡大し、農村の貧困は大きな問題となっていました。
そういった貧しい家庭出身の兵士と間近で接することが多かった青年将校たちは、
自分たちが立ち上がって間違った社会を正そうとしたのです。
 
決起部隊の第一目標としていたのは、
岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、齋藤実内大臣、
高橋是清大蔵大臣、渡辺銃太郎教育総監、牧野伸顕前内大臣の殺害でした。
齋藤実が襲撃された際、身代わりになろうと止めに入った妻の春子も負傷した。
 
岡田啓介首相(左)と松尾伝蔵大佐(右)
 

 このうち、斎藤実と高橋是清、渡辺銃太郎は決起部隊の襲撃で即死します。

岡田啓介は、松尾伝蔵(岡田の秘書で義弟)を兵士が岡田と勘違いし、

松尾を殺害後にその場を去ったために無事でした。

鈴木貫太郎は、襲撃を主導した安藤大尉が鈴木に面識があって一目置いていた事情から、

トドメを刺さずに立ち去ったため命を繋ぐことができました。

牧野伸顕は、たまたま側にいた孫の麻生和子の機転により難を逃れています。

 この他に二・二六事件の死者としては、

岡田や牧野を逃すために応戦した警察官が5名殉職。

銃で撃たれて出血多量により一時意識を失った鈴木貫太郎をはじめ、

警察官にも重傷者が数名いました。

 

理論的指導者と黒幕は?

【三島由紀夫は北一輝のことを「天才的思想家」と呼んでいた。】
 

 民間人にも関わらず、二・二六事件の首謀者として死刑に処せられたのが、

国家社会主義者の北一輝です。

中国の辛亥革命に参加し、五・四運動を目前に見たことで日本の改造を決意します。

天皇大権を中心に国家社会主義的改造を訴えた「日本改造法案大綱」は、

昭和期の軍部や右翼に大きな影響を与えました。

 北一輝といえば、1979年にNHKが二・二六事件の首謀者の一人、

安藤大尉の北一輝への電話を戒厳司令部が傍受していたというドキュメンタリー番組を放送し、

第6回放送文化基金賞本賞など数々の賞を受賞しました。

番組内ではこの傍聴記録は、北を名乗った別人物の電話であり、

陸軍のでっち上げという説が取り上げられていました。

 
 二・二六事件は、昭和天皇が大元帥として事件を収める結果となりました。
そのため、昭和天皇の権威が高まり、神格化されていきます。
そして天皇の権威を利用し、軍部はさらに軍国主義へと日本を進ませていくのです。

 

もし二・二六事件が成功していたら?

【真崎甚三郎は戦後A級戦犯として逮捕されたが不起訴処分となり釈放された。】

 

 皇道派の中心人物であり、

二・二六事件が成功したら軍事政権を担う総理大臣にと考えられていたのが、

真崎(まさき)甚三郎でした。

そのため、

真崎は事件を起こして利がある人物であり、二・二六事件の黒幕としてよく名前が上がります。

しかし二・二六事件に黒幕はいなかったというのが最近の定説になっています。

真崎は事件当時、派閥工作に気を取られており、

事件が発生したことを知り「万事休すだ」とつぶやいたという話も残っているほどです。

 

 短期的な結論で言えば、決起部隊が目指した、

真崎甚三郎を首相とした軍事政権を樹立するのはかなり難しかったと思われます。

内大臣秘書官長であった木戸幸一と宮内大臣の湯浅倉平が、

軍事政権樹立を阻止しようと動いていたからです。

 長期的な話で言うと、

太平洋戦争開戦のきっかけは世界情勢との関係によるところが大きいので、

戦争は避けられなかったと考えられます。

 しかし、天皇親政を謳っていた皇道派が主導権を握っていたら、

戦後に天皇が戦争責任を問われた可能性は高く、

現在の天皇制が続いていたかどうかはわかりません。

昭和天皇は事件以後2月26日を「御慎みの日」として静かに過ごすようになる。