江戸の正月
『二見浦 曙の図』(歌川国貞 画)
描かれているのは、
現代でも大人気の三重県伊勢市にある二見浦(ふたみがうら)の夫婦岩。
ここから眺める初日の出は絶景です。
初代歌川豊国 画
福寿草の鉢植えを手にした美女がカラス(?)の船に乗り込み、
初日の出に向かって船出してます。いかにもめでたそうですが、なんかシュール。
江戸時代にもお正月に神社仏閣に参拝する行事はありました。
住んでいる場所からその年の恵方(年神様がいる方角)にあたる社寺に参拝する
「恵方詣り」というのがそれなのですが、
恵方は年によって変わるので毎年参拝する社寺も変わりました。
ほかにも、氏神さまにもお参りしました。
晴れ着で初詣もとい恵方詣りに向かう男性。
縁起物がたくさんぶら下がった飾り物を担いでいます。
(『春曙恵方詣』部分 三代歌川豊国 画)
「恵方詣り」は,
やがて恵方に関係のない「初詣」にポジションを奪われ廃れてしまいました。
そのあたりには、どうやら鉄道の発達と関係があるとかないとか。
食べないおせち料理
江戸時代、現代人がイメージするようなおせち料理はありませんでしたが、
ユニークなお正月の祝い膳がありました。
それは「食積(くいつみ)」(関西では「蓬莱(ほうらい)」)と呼ばれるもので、
年神様へのお供えとして飾るだけで食べません。
これは江戸時代後期のお正月風景。盃を持っているのは当時の人気役者です。
画像左に見えるのが「食積」です。
☝拡大するとこんな感じ。
三方の中央におめでたい松竹梅や裏白、ゆずり葉、昆布などをセットし、
その周りに伊勢海老、橙(だいだい)、勝栗、梅干し、炒り米などがのっています。
江戸時代初期には、家族で食べたり、
お客さんが来るとつまみながらおしゃべりに花を咲かせたりしたそうです。
しかし、
食ひつみに隠居の指をまよわせる」と川柳にもあるように固いものばかりということもあり、
やがて形式的な祝い膳となり、“見るだけ”の食積は明治時代になると姿を消してしまいました。
江戸時代にはこの食積のほか、食べる用の祝い膳も用意されました。
煮物などを重箱に詰めたのがそれで、これが現在のおせち料理の原型といわれています。
先ほどの画像、食積の手前に重詰めの祝い膳が見えます。
重詰めのおせちは今では3段重がスタンダードですが、
本来は4段重だったんですね。おせち料理の大定番メニュー、
黒豆・田作・数の子などは江戸時代から定番メニューだったようです。
これは江戸庶民の雑煮を再現したもの(深川江戸資料館)。
画像左のお盆にのっているのが雑煮です。
江戸の雑煮のスタンダードは、焼いた角餅、小松菜、大根、里芋などが入ったすまし汁仕立て。
一方、京や大坂などの関西では丸餅の白味噌仕立てが定番。
丸餅は「円満」に通じるとして好まれたそう。
対する江戸が角餅なのは、のし餅を切り分ける方が早くたくさんできるからとも。
せっかちな江戸っ子らしいっちゃらしい。
雑煮を食べる際には「雑煮箸」という祝い箸が使われました。
「お正月に箸が折れるのは縁起が悪い」とされたため、
丈夫な柳でできた箸で、白い紙に包み、紅白の水引で結んだそう。
雑煮は全国各地、
それぞれの地域の特色を反映しバラエティ豊かなものがたくさんありますが、
琉球(現・沖縄)地方ではお正月に雑煮を食べるという習慣がなかったそうです。
(今では食べる家もあるようですが)
“ハレ”の食べ物である餅を入れた雑煮は正月だけの特別メニュー。
しかし、特別な食べ物もそれが続くと飽きてしまうのは仕方のないこと。
昔、「おせちもいいけどカレーもね」というCMもありましたが、
そうした心境は江戸時代の人々も同じようで、こんな川柳があります。
「三日食う雑煮で知れる飯の恩」
正月の三が日もしくは松の内(7日または15日まで)のうちは、
どこへ行っても雑煮を振る舞われるので、さすがに辟易したようです。
江戸時代は1日にお米5合を食べていたので、
白いご飯にアサリの味噌汁がさっそく恋しくなったようです。
画像右にいるのが将軍の正室である御台所。
松竹梅や鶴をデザインしたおめでたい着物を召しています。
置き眉(いわゆるマロ眉)に「おすべらかし」という髪を下げたヘアスタイルは、
正式の場に臨む際のもの。
(『千代田之大奥』より「元旦二度目之御飯」揚州周延 画)