歴史の零れ話...暗殺!雪の鶴岡八幡宮 | 春夏秋冬✦浪漫百景

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歌と画像で綴る心ときめく東京千夜一夜物語

 

なぜ公暁は実朝を殺したのか?

 

建保7(1219)年1月27日、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が暗殺された。

犯人は、第2代将軍の源頼家の遺児、公暁(こうぎょう)である。

 公暁の幼名は「善哉(ぜんざい)」という。善哉は幼くして父を亡くすと、

12歳のときに鶴岡八幡宮の別当である定暁のもとで出家。

僧侶となって「公暁」の法名を授けられている。

 また、公暁の身を案じた北条政子の計らいによって、

頼家の弟で第3代将軍である源実朝の猶子となった。

つまり、公暁にとって実朝は叔父であり、養父にあたる。

その実朝を公暁は暗殺したことになる。

 どうも父・頼家の死を「実朝による陰謀だ」と誤解し、

実朝を殺して自ら将軍になろうとしたらしい。

なぜ、公暁はそんな思い込みをしたうえに、

将軍の座に就くという野望を抱いたのだろうか。

密かに公暁をそそのかした人物がいるのではないか──。

 

 そんな疑惑のもと囁かれるのが、北条義時、あるいは三浦義村による“陰謀説”だ。

果たしてどうだったのか。

 

雪降る鶴岡八幡宮で起きた暗殺劇

 

鎌倉時代の文献『吾妻鏡』では、次のようにある。

「27日。甲午。晴れ。夜になり、雪が降った。二尺あまり積もった。

今日、将軍家の源実朝が右大臣の拝賀のため、鶴岡八幡宮に参詣された。

酉の刻に、出かけられた」

 もはや自分には跡継ぎはできないと、ただ官位の上昇を望んだ実朝。

ついに右大臣となり、任官の祝賀で鶴岡八幡宮を訪れた。

そんなときに事件が起きる。

 記述では「二尺」とあるので、約60cmの雪が積もるなか、

実朝の祝賀が執り行われたようだ。

「酉の刻」なので、午後6時前後に出かけたことになる。

 

 

 だが、いきなり予定が狂ってしまう。

実朝が鶴岡八幡宮の楼門に入るやいなや、北条義時の様子がおかしくなる。

『吾妻鏡』を見てみよう。「右京兆」とは北条義時のことである。

「右京兆は急に具合が悪くなられ、御剣を源仲章に譲り、

退去され、神宮寺で脱がれた後、小町の御邸宅に帰られた」

 

 いきなりどうしたというのだろうか。

体調を崩した義時は源仲章に役目を譲って、帰ってしまった。

なんだか不穏な空気が漂うなか、夜中になって、実朝の神拝は終了。

退出して無事に終わったかに見えた、そのときである。

「鶴岡別当の公暁が、石段の側に忍び寄り、剣を取って丞相を殺害し申した」

「丞相」とは「実朝」のこと。

28歳の若さで実朝は、公暁によって刺殺されてしまう。

公暁は、義時から剣を託された源仲章も一緒に殺害。

『吾妻鏡』によると、公暁は「父の仇を討った」と名乗りを上げていたという。

 

暗殺を生々しく記録した『愚管抄』

 突然の体調不良が幸いし、命拾いした義時だが、あからさまに怪しい。

実朝の暗殺は義時の企みだったのではないか・・・

そんな「北条義時黒幕説」を『吾妻鏡』は示唆しているように見える。

 一方、鎌倉前期の歴史書『愚管抄』では、どうだったか。

著者の慈円が、

実朝暗殺を目撃した公卿5人のうちの誰かから聞き、記録を残している。

そのため、実朝の暗殺場面についても、より詳しく書かれている。

 

 実朝が奉幣を終えると、一人の男が駆け寄ってきたという。

「法師の姿をした者が走り寄って来て、長い裾を踏みつけると、

太刀で実朝の頭に斬りかかった。

実朝が転倒したところ、その首を討って斬り落とした」

最初の太刀のときに、

公暁が「親の仇はこのように討つのだ」と口走ったとも記されている。

『吾妻鏡』の記述とも一致しており、

やはり暗殺の動機は、父が殺されたことへの怨恨だったらしい。

 

百人一首の95番、前大僧正慈円の歌

「おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖」

 

解釈

身のほど知らずと言われるかもしれないが、

このつらい悲しみに満ちた世を生きる人々の上に、

出家して比叡山に住みはじめた私の墨染の袖をかぶせて、

包み込んでやろうと願うのだ。

 

前大僧正慈円(1155〜1225)

慈円は歴史書である「愚管抄」と著したことで知られる人物です。

 

鎌倉時代、波乱万丈、暗殺が続きますね。

怪しいですね。

ミステリーですね。