救いって、なんだろう?
★そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたはメシアです。」(マルコによる福音書8:29) ※メシア…救い主 この箇所に関して、牧師さんが紹介してくださったのは、キング牧師の「コーヒーカップの祈り」というお話です(『マーティン=L=キング』(梶原寿・著)(清水書院・刊)の中で紹介されている逸話のようです)。 黒人の公民権運動の指導者だったキング牧師は、たび重なる脅迫電話や、自宅に爆弾が投げ込まれることさえあり、身の危険を感じていました。そして、愛する妻や娘、自分自身が殺されるかもしれないという恐怖にかられ、運動から身を引きたくなってきたそうです。しかし一方で、公民権運動のリーダーとしての勇気を示したいという願いも消えません。どちらの道を選ぶべきかという葛藤の中で、彼は、すべてを神のゆだねようと祈りはじめました。すると祈りの中で、「義のために立て、真理のために立て。見よ、私はあなたとともにいる。世の終わりまでともにいる」という、主の声が聞こえたように感じました。すると、恐怖は消え去り、どんな障害にも立ち向かっていく覚悟が決まったのです。 キング牧師に与えられた〈救い〉とは、何だったのでしょうか。 進み続けるべきか、身を引くべきか、どちらの道が正しいかの答えが与えられたこと? そうではないでしょう。自分が本当に選びたいのは、「進み続ける」という選択肢だということは、最初からよくわかっていたはずです。しかし、正しい道を歩んだとしても、家族の安全が保証されるとは限りません。では、彼の覚悟が決まったのは、神様によって、家族の安全が保証されたから? いえ、神様は、そんな約束はしていないのです。 「進み続ける」という道を選んだとき、その先がどうなるかはわかりません。家族に危害が及ぶという最悪の結末になってしまう可能性も否定できません。それでも神様は、「あなたが信じる道を進みなさい。その結果がどうであっても、私は最後まで、あなたのそばを離れないよ」と言ってくださったのです。「神、ともにいましたもう」という〈インマヌエル〉こそが、キング牧師に与えられた大きな〈救い〉だったのだと思います。 「わたしは一人ではない」という安心感が、人間に与える影響ははかりしれません。「神様は彼に、〈インマヌエル〉だけでなく、〈勇気〉も与えたではないか」という見方もあるでしょう。しかし、私の考えは少し違います。神様から与えられた安心感によって、彼の心の中に眠っていた勇気、底力が立ち上がってきたのだと思うのです。この見方の違いは、実は、とても重大な違いだと思います。 そう思うのは、テレビで、海外の民主化闘争の記録映像を見たときのことです。機動隊や軍隊が、デモをする市民を引きずり回し、袋叩きにし、血だらけになっている学生や、道ばたに打ち捨てられ動かなくなった市民の姿が映っていました。多くの犠牲者の上に、民主化闘争の勝利があったことを番組は伝えていましたが、その映像を見て、私は怖くなってしまいました。もし私がその場にいたら、勇気をもってデモの隊列に加われたとは到底思えませんでした。 黒人の公民権運動でも、きっと、私のように怖くなって、運動から逃げ出してしまった人もいただろうと思うのです。逃げたからといって、心安らかにはならなかったことでしょう。自分の弱さを悔やみ、仲間を見捨てた罪悪感を、ずっと引きずっていたに違いありません。そういった人たちは、信仰が弱かったのでしょうか? 神様による〈救い〉はなかったのでしょうか? 私は、そうは思いません。そんな人たちの横にも、ちゃんと神様はいらっしゃったと思うのです。そして、「あなたの選択は、あなたの精一杯だったということを、ちゃんと知っていますよ。その結果がどうであっても、私は最後まで、あなたのそばを離れないよ」と言ってくださったと思うのです。 神様の〈救い〉が、「勇気を与える」ということだったら、「なぜ、キング牧師には勇気が与えられ、逃げてしまった人には、勇気が与えられなかったのか?」という疑問が残ります。「それは信仰の強弱によるのか?」という疑問も出てきます。しかし、勇気があってもなくても、〈インマヌエル〉という〈救い〉が、すべての人に差し出されているのです。 イエスが捕らえられ、十字架への道が始まったとき、弟子たちはみな恐怖にかられ、逃げ出してしまいました。弟子たちは、自分たちの弱さを嫌というほど思い知り、愛するイエスを見捨ててしまったというみじめさの中で打ちひしがれていました。そして、必死の祈りの中で、自らの弱さを懺悔(ざんげ)していました。その時も神様は、「あなたの選択は、あなたの精一杯だったのですね。ちゃんとわかっていますよ」と微笑みながら、弟子たちの横に付き添っておられたに違いありません。 「自分の弱さを認め、神様に助けを求める」という点では、キング牧師も、逃げてしまった人も同じです。 「悔い改める」とは、「自分の弱さを後悔し、正しい行動をする」というふうに解釈している人もいるようです。しかし私は、「〈悔い〉とは、自分のありのままを見つめ、自分の弱さに気づくこと。そして〈改める〉とは、自分の弱さは、自分だけの力ではどうしようもないことを認めること。そして視線の向く先を、神様の方に変え、神様にゆだねること」だと理解しています。悔い改めることで、初めて、神様から差し出されている〈救い〉の手、〈インマヌエル〉が見えてくるのです。 ところが、「悔い改める」を「自分の弱さを後悔し、正しい行動に改めていく」というふうに解釈してしまうと、それは、どこまでも自分の力(自力)によって解決していく姿勢になってしまいます。それでは、神様が差し出す〈救い〉の手(他力)が、いつまでたっても見えてこないと思うのです。 ところで、「イエスを裏切った」という意味では、ユダも同じです。ユダもどうやら、自分の行動は間違っていたと、激しい後悔に襲われていたようです。そして最後には、自死を選びました。 私は、「ユダと他の弟子たちとは、〈悔い〉の部分は同じだったかもしれないが、〈改める〉の部分が違ったのではないか」と考えています。自分たちの弱さを知ったとき、自力の限界を知ったとき、他の弟子たちは、他力(神様)の存在にゆだねました。しかしユダは、自らの弱さに、自分自身で審判を下し、自力で決着をつけました。それが自死という行為だったと思うのです。 ユダの目の前にも、神様の〈救い〉の手、赦しと恵みが差し出されていたと思います。しかし、神様に視線を向けることなく、最後まで自力で押し通したユダには、それが目に入らなかったのです。 「ユダは救われたのか?」という大論争がありますが、私は、「神様はユダを赦していたし、救いの手も差し出していた」と思います。しかし残念なことに、自力解決に走ったユダは、そのことに気づかなかったのです。 「自死は、キリスト教とにとっては、最大の罪」という考え方があります。私は、罪と言うより、「せっかく弱さを赦し、助けようとする神様がいらっしゃるのに、そのことに気づかないなんて、残念すぎる!」と思います。 それでは、ユダや、その他の自死してしまった人は、神様からの〈救い〉のチャンスを生かさなかったので、〈救い〉にはあずかれないままになってしまったのでしょうか? 私はそうは思いません。あの世に行った後で、「そうか、神様は救いの手を伸ばしてくれていたのですね。自死なんて、早まった自力解決をしなければよかったです。神様、ごめんなさい」と悔い改めれば、神様は、「やっと気づいてくれたか。よかった、よかった」と抱きしめてくださると思うのです。 選択チャンスは、何度でも与えられる。なんど選択を失敗しても、神様は見捨てないで、次のチャンスを下さる。そのなかで、だんだんに、神様の〈救い〉に気づいていけばよいと思うのです。 この「私たちの自己選択」と「神様」との関係は、現代人にとって、とても大事なテーマだと思います。「現代人にとって、〈救い〉とは何か」ということと密接に関係する大きなテーマだと思うので、また別の機会に、私の考えを書かせていただきますね。(今回は、とんでもない長文になってしまいました。ここまで読んでくださって、ありがとうございました。m(_ _)m )