★そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。(マルコによる福音書7:34)


 聖書のこの箇所で取り上げられているのは、「耳が聞こえず、舌の回らない人」です。一方で、私の仕事は、発達障害を抱えている子どもたちへの支援です。また、苦しい気持ちを抱えて立ち往生している大人の方への支援もしています。さまざまな困難さを抱えた人と、私たちはどう向きあっていけばよいのだろうか? そんなことを考えさせられました。

 困難さを抱えた人との関わり方には、ふたつの側面があるのではないだろうかと思います。
 ひとつめは、「その人が抱える困難さが減っていくように、できれば消えていくように支援をしていく」という関わり方です(今回の聖書でも、人々が「耳が聞こえず、舌の回らない人」をイエスのもとに連れて行き、癒してもらう場面が描かれています)。
 支援者としての私は、もちろん、そうなるように努力していきました。しかし、そういった支援が功を奏することもありますが、なかなかうまくいかない場合もあります。そんなとき、怒りの感情が出てくることがあるのです。うまく助けてあげられない、無力な自分に対する怒りです。ときには、「こんなに一生懸命助けてあげているのに、どうして良くならないんだ!」と、相手に対するイライラが生じる場合もありました(情けないことですが…)。

 そんな状態から抜け出られるようになったきっかけは、〈自分への気づき〉でした。私自身が抱えている困難さは「うつ」です。仕事のために学んできたカウンセリング的な知識によって、死の寸前まで行った私のうつ状態も、長い年月を経て、かなりましな状態になってきました。しかし、なかなか完治はしません。そしてやっと気づいたのです。これは、私に与えられた十字架、私が担うべき十字架なのだと。
 ひとつめの関わり方が難しい局面では、「その人に与えられた十字架を、その人がしっかりと担っていけるように応援していく」。これが、私が考えるふたつめの関わり方です。
 ひとつめの関わり方では、〈助ける人〉と〈助けられる人〉という立場の違いがあります。しかし、ふたつめの関わり方では、〈ともに担う人〉という仲間になるのです。
 聖書の中でのイエスは、さまざまな奇跡を起こして人々を救うという〈助ける人〉の側面が目立ちます。しかし、より重要なのは、十字架の死に象徴されている〈ともに担う人〉という側面なのではないでしょうか。

 〈助ける人〉と〈助けられる人〉という立場を越えた視点から、改めて、聖書のこの箇所を読み直すと、「耳が聞こえず、舌の回らない人」というのは、まさに、私たちのことではないだろうかと思い知らされます。私たちは聴力に問題がなくても、一番大切な言葉を日々聞き逃しているのではないでしょうか。話すことはできても、一番語るべき言葉を口にしていないのではないでしょうか。逆に、聾唖者と言われる方々の中にも、大切な言葉を心の耳で聞き取り、語るべき言葉をしっかりと行動で表現しておられる方も、たくさんいらっしゃると思います。

 さて、この箇所について、心に残った牧師さんの言葉が、冒頭の聖句についての説明です。「私たちが困難に遭ったとき、神様に向かって心を開いていくということが大切。それが、イエスが『開け』と言ったことの意味です」。私たちが困難に立ち向かおうとするとき、ともすれば頑張りだけで、自分の力だけで乗り越えようと焦り、孤独な戦いに陥ってしまうのではないでしょうか。そのとき、神様との関係は断絶されています。自力で頑張ることも必要ですが、一方で、神様に向かって心を開き、神様との関係回復を図っていくことが、大きなエネルギー源になっていくのだと思いました。