★愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。(コリントの信徒への手紙一13:4)

 女優の大地真央さんが、「そこに愛はあるんか?」と叫ぶ、金融会社のテレビCM。この言葉を聞くと、いつも、はっと自分を振り返ってしまいます。以前は、「心に愛がなければ、どんなに美しい言葉も、相手の胸に響かない。聖パウロの言葉より」というラジオの言葉(『心のともしび』というラジオ番組の冒頭)を聞いて、反省していました。
 親子支援という仕事に携わって30年。自分としては、誠意をもって、愛を持ってやってきたつもりです。でも、「本当にそう?」と正面切って尋ねられると、自信がなくなります。ひょっとしたら、心の奥には利己心があるのではないだろうか?という疑念が湧いてきて、落ち着かなくなるのです。

 この聖句の前には、「たとえ、神様の声が聞こえる能力をもっていても。この世のすべての知識や、この世を越えるすべての神秘に精通していたとしても。山を動かせるほどの強力な信仰心を持っていても。貧しい人のために全財産を投げ打ったとしても。人のために自分の命を捧げたとしても…そこに愛がなければ、何の意味もない」と書かれています。たしかにそうだなあと思います。
「じゃあ、愛の人になるためには、どうすればよいのだろう?」と思うのですが、それに応えるように書かれているのが、上記の聖句です。
 これを読んで、「愛を持つためには、忍耐強くなければならないんだ。いつも情け深く、ねたんだりしてはダメなんだ。自慢とかもしてはダメなのか。わあ、難しそうだなあ…」と思って暗くなりました。さらに続きを読むと、「礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」だそうです。「わあ~、これ。絶対無理!」「愛の人になるのは、あきらめるしかない」と思っていました。

 ところが先日、同じ教会の人が亡くなって、その前夜式(お通夜)に出席したとき、牧師さんから、この箇所が示されたのです。すぐに、「苦手な聖句だ!」と思いましたが、次の瞬間、なぜか、「神は愛です」(ヨハネの手紙一4:16)という聖句が思い浮かびました。
 「愛は忍耐強い。愛は情け深い」という部分の「愛」を「神」に置き換えることができるのかも、と思いました。「忍耐強さや情け深さが、人間の努力目標だよ」ということより、「それができないダメなあなたであっても、神様の愛はちゃんと注がれていますよ。なぜなら、神様は忍耐強い方だからです。情け深い方だからです」ということかなと思ったのです。
 愛の人になれるほど、人間は強くない。でも、愛の人でありたいと思う人には、神様はちゃんと後押しをしてくださる。だから、「愛が持てない」と自分を卑下するのではなく、「愛が持てない情けない自分であっても、一歩ずつ歩んでいこう。神様の後押しを感じながら」。そういうことなのかなと思いました。
 そんなことを考えながら、牧師さんのお話を聞いていると、最後の方で、「愛することは、自力ではできない。神や主イエスによってこそ、愛する力が与えられる」ということを話されてしました。よかった! 私の考えも、案外、的外れでなかった。

 宮澤賢治さんの詩「雨ニモマケズ」で描かれているのも、愛の人だと思います。そこに表れているのは、禁欲的で徹底的な利他の精神。とても自分には真似できないな、賢治さんって聖人だったんだなと思っていました。でも、よく読めば、「そういう者に、私はなりたい」という言葉で終わっているので、これは願望・目標だったのですね。でも、それにしても、そういう目標を持って頑張っていたことだけでもすごいと思うのですが…。
 ところが、日蓮宗僧侶・仏教学者である北川前肇(きたがわ・ぜんちょう)さんによると、通常はカットされているけれども、詩の最後に付け加えられている部分があるのだそうです。それは、「南無無辺行菩薩/南無上行菩薩/南無多宝如来/南無妙法蓮華経/南無釈迦牟尼仏/南無浄行菩薩/南無安立行菩薩」という言葉。これは法華経のお釈迦様にむけての念仏だそうです。
 法華経の教えに深く学んでいた賢治は、自力や努力で「愛の人」になれるとは考えてはいませんでした。ただただ、お釈迦様の力におすがりするしかない。その気持ちを表したのが、「雨ニモマケズ」の詩だったのです。なんだか、宮澤賢治さんが身近に思えてきて、安心しました。