高田龍の《夢の途中》 -94ページ目

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。




このBlogは私の所為なんですが行き先が見えなくなっています。
Blogを読んでくれている方も私のだらしなさを察知したのでしょう、アクセス数がここ数日の間に激減している。
そんなことを言っていても始まらないので今日の作業を始めようと思う。

十二月八日。
昭和十六年のこの日、日本は米国の真珠湾を襲った。
事前の前触れも無く挙行されたこの作戦は米国軍人だけでなく民間人にも日本人憎しの思いを植えつけた。
何度も映画化された、この作戦から世界中が戦争に突入して行った。

時代は違うが、この真珠湾攻撃の日と同じ十二月八日は私の人生にも大きな爪痕を残した日だった

昭和四十七年十二月八日。

私は二十一歳。

今から五十年前である。

あの日からもう五十年経ったのかぁ。

この日、私は横浜の本牧から父と仕事関係の人と三人で東京湾を房総半島を目指しフェリーに乗った。
風の強い日だったことを憶えている。
船首に立つとフェリーは激しく上下に揺れていて少し
恐怖を感じた。
私は何度も頭から波飛沫を被った。
寒かったが、船長にでも為った気分でいたことを記憶している。
それから二時間ほど先に私を待つ恐怖がどれほどのものかも判らずに。

やがてフェリーは房総に着いた。

父の運転する白いクラウンは順調に目的地を目指していた。

私は朝早く起きたのでこの頃は空調の効いた車中で眠っていた。

白いクラウンは海岸線を縁取るように進んでいた。

その日は金曜日だった。

もうすぐ正月だ。

その前にはクリスマスだってある。

知っている人は判ると思うが海岸線の道路はやたらとトンネルが多かった。

冬の陽射しがトンネルの向こうからこちらを照らすとその中から出て来る対向車は見えない。
あとで父に聞いた話だと何度もトンネルから出て来る対向車に驚かされたと言う
クラウンが富津市に入ってしばらくした頃、トンネルから出て来たバスと衝突しそうになり、避けたためにトンネルの角に父のクラウンはぶつかってしまったのだった。    

        以降次回