高田龍の《夢の途中》 -93ページ目

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。



前回の描写ではサラッと書いてあるので、あまり切迫感が伝わっていなかったと思いますが、今日はその時の状況をしっかりと再現したいと思います。


前回申し上げた通り、父の運転する白いクラウンは幾つかあるトンネルの一つの角にアタマから突っ込んだ

のです。

トンネルから出て来たのは都営観光のバスでした。

このバスも父の運転する白いクラウンと衝突しそうになり、それを回避するためにハンドルを切り、その為にバスの後部がクラウンを弾き飛ばすかたちになってしまいました。

私達の乗ったクラウンは通常より勢いよくトンネルの角に衝突することになったのです。


携帯電話もない時代のことでしたが不幸中の幸いでしょうか、相手が都営観光のバスだった為に無線を使い事故の状況は直ぐに警察や消防へ通報されました。


クラウンの中に乗っていた私達がどのような状況だったのか、ここからは私が事故のあと、しばらくたってから父に聞いた話を参考にしたいと思います。

何故かと言えば私は意識不明の状態でその時の状況はまったく把握してないからです。


都営観光のバスと衝突してその反動でトンネルの角に突っ込んでしまった私達のクラウンは、あっという間にフロント部分から火を吹きはじめました。

意識はハッキリしていた父は、まず周りに目をやります

後部座席に座る仕事の関係者は気絶しているようでした。

次に助手席を見ると、我が息子は頭から血を流して動かない。

次に自分の状態を考えましたが胸の痛みが酷く、多分肋骨が何本か折れているだろうと思い、今の自分の力では意識を失っている二人を車外へ連れ出すのは無理だと判断したそうです。


当然どちらかを、となれば我が子を助けたいのが人情です。

父はもう一度私の方に目をやりました、出血している頭部はよく見ると頭蓋骨が割れていて、その部分から脳がはみ出しているのでした。


父は心を決めました。


息子は、助け出しても死ぬだろう。

自分の体力も何処まで続くのか判らない。

せがれを助けて他人を殺したとなれば髙田家にとって一生の恥。

助手席の私に向かって父は『せがれよここで別離ることになるが許せ』

心の中でそう呟いたそうです。


病院に収容されてから解ったことですが、父の肋骨は左右で五本も骨折していたそうです。


とにかく事故の衝撃で開かなくなってしまったドアをこじ開け、意識の無い人を背負い、燃えているクルマがもし爆発するような事が有っても大丈夫な距離まで離れてその場にうずくまってしまったそうです。


父は陸軍士官学校出身で飛行士として支那事変から太平洋戦争を経て終戦を迎えた人です。

戦争は悪いことに違いありませんが、戦争経験者に関してはそのスキルと言いますか人間力と言いましょうか、頭の下がるものがあります。

父は戦争中の武勇伝を語る人ではなかったので、私が子供の頃に知ることは少なかったのですがいざという時になるほどと思わされることはありました。


救急車が来ました。

私達のケガの状態を救急隊員が確認していきます。


これも後から教わったことですが、病院に行けば間違いなく助かる人から優先的に救急車に乗せるそうです

救急車に収容された順番は最初に父が背負って車外へ連れ出した人、次に私の父

、最後に私となる訳です。

二人が現場を離れてから暫くの間、三台目の救急車が来る迄待たなくてはならないようでした。


どれくらい経ったのかは判りませんが私を乗せる為の救急車がやって来ました。


ところが、速やかに病院に収容とはいきません。



私の状態を救急隊員から聴いている病院側から次々と断られてしまったのです。

このままでは、私の生命が危険になってしまうことを心配した救急隊員の方も必死に病院を探してくれたのです。


ここから私の奇跡的と言える蘇生へのドラマが始まるのですが。

     以下は次回へ。