老住職は、口元の真っ白な髭に手を充てながら、相変わらず笑顔を向けてくる
。
『御住職、なんで由紀恵の夢の事をご存知なのですか』城所浩一が尋ねるが、住職は笑顔のまま天井を見上げている。
しばらく沈黙の後、住職は二人に解るように言葉を選びながら話し始める。
『これから拙僧が話すことは、世の中にはそういう事も有るという、広い心持ちで聞いて戴かなくてはなりません、宜しいかな』
『御住職、それはどういうことでしょう』
『そのまんまのことじゃ』
住職は、自分がこれから話すことが二人には到底理解出来無いことであったとしても、頭ごなしに否定することをせずに話を聞くだけは聞きなさいという意味だと教えてくれた。
顔を見合わせた二人は互いの想いを確認すると住職に向かって、姿勢を正した。
二人の雰囲気を感じたのか住職は満足そうに髭を擦り話し始めた。
『今の科学や色々な学問が辿り着いているかどうかは別にして、人の思いはその人間が死んでも、その子孫へと受け継いでいく、何世代にも渡って繋がっていく
んだ、それは思考が記憶していると言うよりももっと奥の方に、言ってみれば我々の血の中滲み込んでいると言うか・・・』
『それは、たとえばDNAの中ということですか?』
『今風に言えばそうなのかも知れませんな』
『それでは由理恵の夢は彼女の祖先の誰かが未来に遺そうとしたもの』城所は
やっとこの住職の話が呑み込めたのか『それでは遠い過去に自分が聞いたとか見たというか、知識として憶えているものを超えた過去の、知るはずもないような事が知識として存在するというわけですね』
『そういう事じゃよ、ところでお二人は三遊亭圓朝という落語家を知っていますかな、といっても活動していたのが、弘化二年頃からだから江戸時代末期から明治の初めにかけて、西暦にすると千八百四十五年から千八百年代の終わり頃迄だから知らなくても仕方ないことなんだが、近代落語の祖と呼ばれる人物で落語に与えた功績は多大と言えるこの圓朝の落語には笑い転げるような物からじっくりと話を聴かせる講談のようなものも得意にしていたそうなんだ、特に《怪談噺》には名作も多く圓朝の名前は知らなくても、彼の残した《怪談》の名前なら知ってているという人は多い』
《怪談》それ自体は作者の創作だけれど、作り手達は
それを創り上げるために周囲に起きた出来事の多くにインスパイアを求めて取材をしたりしていたという。
その頃に実際に起きた刃傷沙汰や男女の人間関係の縺れなどに焦点を充て、それらを参考に肉付けし創作をしていく。
三遊亭圓朝もその方法をとっていたと聞く。
たとえば彼の優れた作品の
中に《牡丹灯籠》という怪談があるが、その源は中国に有るが、それを叩き台にして日本人に向けた物語を創り上げたのだ。
長い時間だった。
老住職は最後に由理恵が見た夢について話した。
『貴女の見た夢のことについて話しておかなくてはいけませんな、そして拙僧が何故そのことを知っているのか、これを説明しなければお二人が此処へ来た意味が無くなってしまう』
そう言うと住職は自分の遠い先祖が、この三遊亭圓朝が創作した《怪談・牡丹灯籠》の叩き台として取り上げられた神田・神保町の刀剣商、藤村屋の店先で、乱暴狼藉を働き、最後は店の客飯嶋兵太郎という若侍に斬り殺された黒川幸三という男だったと話したのだった。
城所浩一は自分の婚約者である秋津由理恵がその刀剣商の子孫で、目の前にいる老住職がその店先で斬殺された狼藉者の子孫だと言われ、ここまで偶然が重なるものかと、身体が震える程だった。
『拙僧の先祖という黒川幸三という男は、相当な悪者だったらしく、飯代を踏み倒したり、街中を通行している人に言いがかりをつけて金銭を脅し取ったり、商人の妻女を攫って凌辱したり
それはもう数々の悪行を繰り返す人非人だったらしく私も子孫として懺悔滅罪の祈りを欠かした事はないんだ』
老住職と秋津由理恵の過去が不思議な縁で繋がっていたことは驚きだった。
続く。