親父の桜 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。



何年も前に今日の話題は書いたことがある。


私は父親の話題をよく書いてきたが、今日のも同じような話です。


私の父親は大正五年、一月十二日の生まれです。


画家を目指していたそうです。

私の知っている限り、びっくりするほど絵は上手でした。


そして描き方の技術というか描く方法、作法を知っている人でした。


誰かに習っていたのだろうと思っていました。


ホラに聞こえると嫌なので名前は伏せますが、美術の教科書に名前の出て来る方の門下生だったそうです。


その父がなぜか画家にはならなかった。



旧制の中学時代だったと思いますが、当時のことですから飛行機は宇宙船くらい遠い存在だっと思います。私達がスーパーカーに憧れてモーターショーに集まるようなものでしょうか。


仲間の誰かが提案します。


《立川の飛行場に行けば飛行機見れるんじゃん。》


父も含めて皆んなはそれに賛成しました。



何日か後の、おそらく日曜日だったのだろうか父親達は横浜から立川へ向かった。


父は横浜に生まれ横浜で育った。


通学していたのは本牧中学。


現在の横浜高校。


そうメジャーでも活躍した松坂の出身校である。


なんと言っても昭和初期の話です。

横浜から立川までどれほど時間がかかったのでしょうか。


やがて

彼らは立川の飛行場に到着しました。


そして父は飛行場を初めて見たのです。


生前の父にこの日のことを聞いたことがあります。

十五歳になったかならないかの政次少年(父の名前)はたいへん感激したそうです。

 


よく解りませんが人にはそれぞれ分岐点になるような出来事が人生には待っているような気がします。


政次少年にとっては、人生最大の分岐点だったようです。


家に帰ると直ぐに父親に談判したそうです。


あっちにもこっちにも《父》とか《父親》が出てきて書いてる私がわからなくなりそうなので。


ここに出てくる《父・父親》は先ず髙田龍の父親政次です。

私の父親の子供の頃の話に登場してくる《父親》は、

私の父親ではなく父の父親です。

私の祖父です。

なんか余計にわからなくなりましたね。


今回は、私の父親が亡くなる前に接木をした桜の話をしようと思っていたのですが、長くなりましたので、


この後は後編をお楽しみに。