ある日の風景 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

ある日の、

ある街の、

ある風景。

夏が近づいているのが感じられる。

その街の駅前のロータリー。

なにやら、懐かしさを掻き立てられる。

気がついてみると、フルートやクラリネットの奏でる懐かしい曲が、何処からか流れている。

目で音楽の流れてくる先を追う私。

見つからない。

流れてくる先が見つからない。

昭和の、しかも私が幼い頃に流行した曲の数々が、五月の風に乗って流れてくる。

やがて私の目は、音楽の発信元を見つけた。

『チンドン屋』

まさにチンドン屋が奏でる音楽だった。

でも、何かが変だった。

何が変なのだろう。

その『変』に気付いた時、思わず笑ってしまった。

時代は変わっていくものだ、そしてその時代の流れの中で、文化や風俗、伝統や習慣、学説や常識、中々変わるのが難しい、変化し難いものが変わる。

その日、チンドン屋のおじさんもおばさんも、楽器を持ってたらいなかった。

持ち歩いていたCDプレイヤーから懐かしい音楽は流れていたのだ。

そんな時代が来ていた。

幼い子供達が、まだまだやり残したことを山のように抱えて殺された。

突然、我が子をその手からむしり取られた親の悲しみは誰が癒してくれるのだろうか。

どのような理由があったにせよ、凶行に及んだ人間の言い訳など、聞く耳を持ちたくはない。

世論も、変わった。

ただ犯罪者のレッテルを貼るだけでは何も解決はしない、もっとその深層にあるものを・・・

犯人が何故、このような凶悪な事件を起こしたのか・・・

世論がすべて犯罪心理学者になる必要があるのだろうか。

パネリストになる必要があるのだろうか。

楽器を持たない『チンドン屋』に出会った時、世の中は間違いなく変化していると、知らされた。