昭和世代の紡いだ平成プロレス〜気がついた事 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

思いつくままに、書き続けて来たが、読んでくれている方達は、どのような感想を持たれたのだろうか。

2017年7月25日に序章を書き始めて、気がつけばもうすぐ1周年。

この間にも、私の周辺にはいろいろな事があった。

あっという間に1年。

とは言え、やっぱり1年という時の流れは、様々なドラマを紡ぐには充分な時間だと思う。

書き始めてから1年近くのあいだに私の周辺に起きた出来事の中でも、特筆されるものは篠眞一が鬼籍に入った事だろう。


ラインでのやり取りの中で、私は彼の闘病を知った。

電話した私に、ラインでの返信。

病院で検査を受けているとのことだった。

ラインのやりとりの後、かれから電話があり、癌であることを知らされた。

その後の何度かのラインでのやりとりは、ただ励ましでしかなかった。

その度に、力強いメッセージが返って来た。


私は、もっぱらラインを利用してのものだったが、励まし続け、そして祈った。

彼は、亡くなる前日くらいまで私からのラインを見ていたのかもしれない。

ともあれ、人が逝くことは心の力を弱める。

心を弱めることといえば、裏切られることもそういえる。

相手を信頼している度合いによって、それは変わってくる。

まぁ、彼ならそういうこともあるだろう、などと予測できる相手の場合には、心が被るダメージも少ない。

ところが、こちらが全幅の信頼を寄せている人間が相手となるとそうはいかない。

長く生きていると、こういった経験に何度か遭遇する。

自分を中心に考えてみると、自分は誠心誠意取り組んで、そのことに恩恵を被った人々が、結局は感謝のカケラさえ感じていなかった。

そんなことが当たり前にあるという事。

自分の人生のドラマの主人公は当然私なのだが、そのドラマの脇を固める俳優達は、それぞれの人生の中では、主人公を演じているのだ。

だから、けして私の思い通りの筋書きは綴られることはない。

その事が理解できなかったり、納得が出来ないとすれば、それは私が見当違いなのだ。

人は、それぞれの視野でものを見ているのだ。

同じ場所に立ってはいても、見ているものは違うのだ。

そんな当たり前のことを、私はつい最近なって知った。


私は、愚かだった。


もうやめよう、正義の人を気取るのは。


しばらくの間、更新を怠ってしまったこのブログも、いったい誰が読みたいと思うのだろうか。

こんな落伍者の言葉を。