昭和世代が紡いだ平成プロレス〜夢の欠片 9 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

   〜1994年12月17日。〜

   その日が来た。

私は、参戦することになった二人を伴って横浜文化体育館に向かった。

戦力外というレッテルを貼られてしまった茂木は、トーナメントに参戦、予想を覆して決勝まで勝ち上がり、新日本プロレスのエル・サムライ選手を相手に惜敗するも見事、準優勝した。

この興行は、私の短いプロレス生活の中で最悪の興行だった。

リング上で繰り広げられた試合のそれぞれが最悪だった訳ではない。

ここに載せた写真は、あの日に撮影したものだ。
右端の私の憮然とした表情。
左から二番目は茂木だが、これを見れば泣き腫らした表情が一目瞭然だと思う。

茂木は、トーナメントの準優勝に感極まったというのだろうか?
他の二人の表情はマスクで判らないが、旗揚げ間際の意気揚々というものではない空気が漂っているのが、この写真から伝わってくる。


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それなりの事が、リングの外では起きていたということだ。

不愉快な一日だった。

この日の帰り道、私は同行の選手達に告げた。

〜これで終わった。あとは旗揚げに向けて、余所見せずに、一直線で行くぞ。〜

翌週のプロレス各誌は、私の予想通りの記事になっていた。

SPWFのビッグマッチの記事には、《レッスル夢ファクトリー》の活字が躍っていた。

《また新団体誕生》の文字もあった。

不愉快ではあったが、あの興行は結局私達に追い風になった。

あの年の年末の時点で、旗揚げ興行は年が明けて三月。

当時、団体と認められているものだけでも29の団体が林立していた。

そして私達は30番目の団体に成る予定なのだ。

《群雄割拠》だった。

毎夜必ず、日本の何処かで何れかの団体がプロレスの興行をやっている。

それは、ある意味異常なことだった。

1994年は、静かに暮れて行った。

そして、私達が大きく羽ばたく1995年が明ける。