昭和世代が紡いだ平成プロレス〜夢の欠片 5 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

  その年の10月はあっという間に過ぎた。
私は、プロレス界に姿を見せることもなく、新団体設立のために忙しく動き回っていていた。

身体は疲れていたと思うが、緊張感と高揚感に包まれていたためか、爽快な気分の毎日だった。

その頃はまだ、私の動きは業界に知られてはいなかった。

しかし、SPWFの自主興行の中では、少しづつほころびが見え始めていた。

それが決定的になったのは、1994年11月、千葉公園体育館だった。

その数日前に、スポーツ新聞などに《茂木・神風退団》の記事が躍った。

さらに、《造反》という文字も。

他に何人かが帯同する旨の内容が書かれていた。

驚いたのは、《新団体設立か?》

《団体名は、レッスルファクトリー・夢》

この名称は、改修工事の終わった道場の中で、団体名を何にするか悩んでいた私が、いろいろ出した案の中のひとつだった。

その時に誰が私の側に居たのかは、もう憶えていない。
何と言っても、二十三年も前のことなのだ。

どちらにしても、身内から漏れたことに間違いは無い。

それでも、茂木達はマスコミの取材攻勢に沈黙を通した。

迎えた千葉公園体育館大会は、当然何かが起きるという予感を持って会場に足を運ぶファン、マスコミ関係者で、いつもの興行とは少し雰囲気が違っていた。

私は、茂木達を会場まで送る事になり、その会場に居た。

なるべく目立たないようにしてはいたが、目ざといマスコミ関係者には直ぐに見つかってしまった。

囲まれて質問責めにはあったが、茂木達とは主催側に迷惑はかけないと打合せしていたために、新団体設立については、黙っていた。

私は体育館のロビー、彼等は控室の中、いちいち意思の確認も出来ずにいたが、マスコミからSPWFの見解を聞かされた私は、出て行く選手達は最初から戦力外との部分に納得がいかなかった。

SPWFにとっては、茂木の加入、『神風』の誕生は大いに戦力に成ったはずだ。

それ以外の選手達も興行を成立させるためには、充分に貢献している。

メジャーのマットでメインに絡んでいた代表達からすれば頼りなく思えたのかもしれない、しかし彼等も新日本プロレスのリングに上がる事を許されたレスラーなのだ。

《戦力外》と言われることはない。

私は、現在の心境と今後の計画を語った。

何故、選手達が離脱するのかという質問には《泥仕合》を避けたいと沈黙を守った。

それから二十年以上が過ぎた。

ここで、それを語ったところで、泥仕合どころか興味を持つ人も居ないだろう。

私が墓場まで持って行けばいい事だ。

試合後、茂木達は退団を表明した。


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SPWFは、年末に横浜文化体育館でのビッグマッチを控えていた。

新日本プロレスをはじめ、インディ各団体からも選手が参戦するJ・ヘビー級のトーナメントが予定されている。

《立つ鳥跡を濁さず》の喩えをまつでもなく、在籍した団体を去るにあたってはスッキリとしたい。
茂木達もこのトーナメントを最後にするつもりだった。

しかし、戦力外と言われてノコノコ出場する訳にもいかない。

SPWF側も横浜文化体育館の事を考えた上でマスコミに戦力外と公表したのだろうから、替わりの選手は決まっているはず、私達は新団体設立に全力で取り組めばいい。

早く団体の名称を決めなくてはいけないし、ロゴマークも創らなくてはいけない。

選手達を乗せて、私は千葉公園体育館を後にした。