昭和世代が紡いだ平成プロレス〜序の八 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

   今回は、私がSPWFの事務局長に在任中に出会い、今でも印象に残るメンバーの想い出を書いてみようと思う。

私が気ままに選んだ選手達なので、本人達とは10年を超えて疎遠になっている人もいるし、交信があると言える人でも、メールや電話くらいの事なので、あの頃の若者たちが、どんな親父に成っているのか。

そういう訳で、名前を出す事を基本的にはしない事にしようと思う。

あとで、お叱りを受けても、《ウルサイッ!》の一言で片付けられる相手は実名にすることもあるかとは思う。
始めに断っておくが、SPWF・社会人プロレス連盟は私の団体ではない。
それなのに、何故これほど文字数をSPWFの事に費やしているのかということを知っておいてもらおう。

41歳にして、この業界の門を叩いた私にとっては、ある意味では、SPWFは私のルーツだからだ。

今迄、SPWFの事は多くを語ったことがなかった。
話したくない事も多い。
それは、私が人間としてカドの多い、ササクレた心の持ち主だったからなのかも知れない。

齢65を過ぎて、遅過ぎた感もあるが、丸くなってきたのは体型だけではないのだろう。

ここで書くつもりの人達は、後にレッスル夢ファクトリーで活躍することになる選手達を除くことにする。彼等のことはそちらの方で書くつもりにしているので、そのつもりで読んで頂きたい。

前置きはこれくらいにして、話を始めることにする。


若干、物議を醸した社会人プロレス連盟も、旗揚げ二連戦以降、月間1試合ペースの興行を続けていた。

そして、年末を迎えた。

2部3部リーグの会員達の中から、希望者を募り伊豆の山奥で合宿を行なった。

相変わらず、3部リーグ会員達の身体能力の低さには驚かされたが、予想外の逸材に出会うことにもなった。

何故この合宿に彼が参加することに成ったのか、私は知らない。

知らなかったのか忘れたのか、実際は忘れてしまったのだと思う。

簡素な旅館だったが、施設内に体育館があるため、あちこちの大学や高校などが合宿をするのに重宝な旅館だったようだ。

大型のバスに乗り込んだ私達は旅館に到着すると、ます体育館にリングを設置した。

日没近くだったか、初めて見る若者達が数名、私達が合宿していた旅館にやって来た。

その中に、彼がいた。

もし彼に会っていなかったら、私の中の学生プロレスに対する偏見は消えなかったと思う。



この続きは次回で。