昭和世代が紡いだ平成プロレス〜序の六 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

    社会人プロレス連盟、SPWFの旗揚げ興行はともかく終了した。

桐生、そして後楽園ホールの二連戦は旗揚げ興行ということを考えれば、けして素晴らしい結果とは言えなかった。
それだけ話題性と、ファンを刺激するものが足りなかったのだろう。

理屈抜きに喜んでいたのは3部リーグの会員達だった。

彼らにしてみれば、絶対に上る事を許されないリングの上に立つ事が出来ただけでなく、受け身をとることや、制限付きとは言え試合をすることも許されたのだ。

嬉しくない訳はない。

旗揚げ興行を前に、SPWFでは会員募集のための
強化合宿を行なっていた。

当時の専門誌の記事には〜〜

一般社会人に門戸を開いたことで話題を呼んでいる
SPWFが8/13〜/15日迄、2部3部リーグの会員募集を兼ねた旗揚げ二連戦の参加希望者を決定するための強化合宿が行われた。

参加人数は、男性31名、女性が2名。

会場は、足利工業大学附属高等学校のレスリング道場。

〜〜と記されている。

活字だけを見れば、かなりの規模と、厳格さが伝わってくる。

しかし、2部〜3部リーグの会員に成ろうと集って来た若者達を見て、私は不安な気持ちになった。

翌朝、トレーニングを共にした私は、参加者の体力の無さに驚き、不安が現実のものと成った。

彼等は、謂わゆる格闘技の経験者や何れかのスポーツのエキスパートではなかったのだ。

柔道やアマレスなどを多少の経験者は、もちろん居たが、大半はプロレスファンだった。

学生プロレスの経験者は、本人が辞退しない限りは、半ば自動的に2部に所属出来た。

そして、私が最も驚いたのが、社会人のアマチュアプロレスの組織が既に存在しているということだった。

学生プロレスの存在がメディアに取り上げられる様になったこの頃、私もその存在は知ってはいたが、社会人の組織があることは、まったく知らなかった。

世の中には、いろいろな世界があるものだ。

私は、意見を言う立場ではないと自分の中で決めていたが、ある意味画期的な、このシステムに耐えられるのだろうかと思った。

私のプロレス観ではない。

そして、私の団体でもない。

私は、立上げ期間が終われば、いつもの生活に戻る人間なのだから。

私のプロレス観などどうでもいいのだ。

ただ、これだけは言っておきたい。

旗揚げ当初、そのユニークさ故か揶揄されることの多かったSPWFだったが、メンバーの中には、今も現役で活躍するレスラーがいる。

メジャー団体に参戦している人間もいる。

少し、SPWFの功罪について書きたいと思うが、それはあくまでも、私の私観であることを先に断っておきたい。

日本のプロレスの起源は力道山の登場以前に遡ることは言うまでもないが、力道山が相撲界からプロレスの世界に入ったことで日本のプロレスが発展したことは間違いないと思う。

力道山亡き後、彼が創設した日本プロレスから、故G・馬場の全日本プロレス、A・猪木の新日本プロレスが生まれた。

そして、永く二団体時代が続く。

その鉄壁を破ろうとしたのが、国際プロレスだった。

だが、国際プロレスは永くは続かず、S・小林、ラッシャー木村、そしてアニマル浜口などが新日本を中心回る衛星の様にプロレス界に放たれた。

この何十年という期間、プロレスラーという職業の人間は、100人を超えることはなかったようだ。

レスラーの新陳代謝による増と減の繰り返しの中でこの数字は常に保たれていた。

デビュー前の練習生を加えるかどうかで若干の違いはあったとしても、まぁこの位の人数に収まってきたと思う。

それに、変化が起きたのは、UWFの誕生だった。

その後、FMWをリタイアしていた大仁田厚が設立する。

このあたりから、多団体時代が始まるのだが、私は多団体時代の到来に一番影響を与えたのはSPWFだったと思っている。

その理由は、次回に書くとしよう。




しばらく中断していますが、必ず続きは書きますから、こちらもよろしくお願いします。