彼が遭遇した悲惨な事故からは何日も過ぎていたが、俄かには信じられないというか、ピンとこないというのが実感だった。
彼の右脚は膝から下が数十箇所にわたる粉砕骨折だったと聞く。
《再起不能》
もっとも適切な表現だろう。
プロレス界には、話題作りのために怪我や体調不良を膨らませて報道することもあるが、彼の事故は、いわゆる《ガチ》だった。
その彼の引退セレモニーが名古屋のノアのリングで行なわれた。
私は、その場所へ行かなかった。
非礼な話だと言われても仕方ない。
私は、彼が私の命の恩人であると、過去にこのBlogでも何度か書いたりもした。
人との会話の中で青柳政司の話題が出るたびにそう言ってきた。
もちろん、事実である。
彼が私の団体に参戦するようになったのは、私の団体のスポンサーが撤退し、選手達も私も困窮していた頃だった。
彼には苦労ばかりをさせてしまったが、愚痴も文句も彼の口から聞いたことはない。
大きなキャリーケースを携えた彼が会場入りすると周囲が明るくなった。
彼の天性の明るさと、メジャー団体の会場を沸かせてきたキャリアが創り上げたオーラのなせる技だったのかも知れない。
彼のセレモニーがあった日の夜、YouTubeの映像で彼の雄姿を観た。
まだ、プロレスラーとしてデビューする以前の若き空手家青柳政司がそこにいた。
相手は、当時しばらくの間リタイアしていた大仁田厚だった。
主催はフルコンタクト空手の団体、青柳政司の試合は異種格闘技戦として行なわれた。
空手の関係者が会場を埋め尽くし、殺伐とした雰囲気が画面からも伝わって来る。
プロレス会場の雰囲気とはまったく違う空間で彼は空手家として戦っていた。
この空手イベントでの試合が好評を博し、以後大仁田厚は、プロレス界へ本格復帰し、《FMW》を旗揚げしデスマッチ路線を進み、インディズのカリスマへと昇華していったことは周知のことである。
その《FMW》の初期に繰り返し行なわれた青柳政司と大仁田厚との異種格闘技戦は、この団体の土台作りに大いに役立ったことも忘れてはならない。
プロレスに限ったことではないが、ひとつの組織が隆盛を極めるとき、その底辺には必ず功労の存在がある
ものだ。
確かに、涙のカリスマと云われる大仁田厚の強烈な存在感が《FMW》の隆盛を極めさせたことは疑いのない事実ではあるが、プロレスは相手選手の善し悪しで大きく変わる、とくにまだブームの来る前の功労者の筆頭は青柳政司だと言っても異論を挟む余地はないのではないだろか。
ところが、しばらく継続すると思われた青柳政司と大仁田厚の異種格闘技戦は、青柳政司の離脱で唐突に幕を下ろした。
そこに何があったのか、私は知らない。
知ろうとも思わない。
その後、館長はプロレス界の中に進んでいく。
1990年、青柳政司は新日本プロレスのリングに上る。
サンダーライガーとの殺気漂う異種格闘技戦は全国のプロレスファンの心を鷲掴みにした。
当時、テレビでプロレスを観る程度だった私は、画面の中で仁王立ちする青柳政司をゾクゾクしながら観ていた。
その青柳政司が、後に私の命の恩人になるなどこの時の私は知る由もなかった。
そして、その私自身がプロレス界に身を置くことに成ろうなどとは、想像すら出来なかった。
館長!お疲れ様でした。
《また、青柳政司のことを書こうと思っている。》