宛字に潜む哀しみ。 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

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嫌な事件が続く。

子供が犠牲になったもの。

高齢者や、身体や知的障害のある人が犠牲になったり被害を受けている事件や事案。

1対1の状況で起きたものより、複数の人間がひとりに危害を加えることの方が多いような気がする。

『氏』にたい。

『市』んでもいいですか?

二つの文字は、いわゆる宛字だろう。

『死』という文字を使えなかった少年の心を思うと言葉がない。

そこに『死』と書いた時に、もう引き返せないことを知っていたのだろうか。

『死にたい』と愚痴る人は、多いかも知れないし、『死にたい』と思うほどの悲しみや苦しみ、絶望や逆境にさらされている人も多いはずだ。

『たい』という言葉に、死の淵に立っている人たちの『SOS』が、命の叫びが聞こえてくる。

『死にたい』は、今の自分を取り巻いている状況にひとりでは抗えないので助けて欲しいという切なる思いが裏打ちされている。

少年が、『死』の文字を使わずに宛字にしていたのは、最期まで現実としての『死』から目を背けたかったからではないだろうか。

死にたいと思って生きていく人なんていない。

頼るべき人がいないと、救い出してくれる友もないと知らされた時。

耐えきれない現実から逃れる道はこれだけしかないと、少年は思ったのだろうか。

間違いなく、道はある。

虐めを、虐待をする者達に仕方のない理由など、砂粒ほどもありはしない。

ウジ虫にも劣るお前達に、芥子粒ほども酌量の余地はない。

冥福を祈る以外に何も出来ない己れの情けなさ。