悲しい話はもういいよ | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

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   楽しい話を書きたいと思っているのだけれど、巷は辛く悲しい、思わず眉間に皺が寄ってしまうようなことや、目頭の熱くなることに満ちている。

そして、そのことに驚いてもいる。

非道なイスラム国の残虐の軌跡は、いまだに海の向こうから届いて来る。
悲しいことは、世界が怒りと悲しみに包まれている今、彼等に共鳴し、賛同する人達が彼等のもとに向かい、海を渡っていることである。

とくに、若い女性の行動が目立つようだ。

人は、それぞれ何を支持し、何を拒絶するかの自由を持っている。

しかし、それは人間として最低限の良識と正義の上に立ってのことなのは当然だろう。

サッカー中継を観たという理由にもならない理由で大勢の少年達を殺害し、拉致した女性を性奴隷にし、誘拐した人達の臓器を売買し、殺し、斬首し、生きたままの人に火を放つ。
その、とても正視できないような映像を世界に配信している様な組織の何処に、微塵でも正義が有ると感じるのだろうか。

そんな中、また胸が苦しくなる出来事が。

豊かな自然に包まれた離島に育った少年が都会に潜む悪魔達に殺害された。

テレビ画面の中の少年の、なんと明るい、なんとくったくのない笑顔だろうか。

あの笑顔を見るだけで、少年の人となりについてなど、何の説明もいらない。

少年が、離島を離れる日、少年を乗せた船は、それまでにないほど紙テープが繫がり、見送る仲間達は、桟橋の端まで走り、いつ迄もいつ迄も手を振り続けていたと云う。

まるで、映画のシーンのようだ。

この話を沈痛な面持ちで伝えていたのは、少年が通っていた島の小学校の校長。
今更何を言ったところで、全てが遅いの一言に尽きるのだけれど。
この島を離れなければ、青い空と蒼い海に抱かれて、きっと少年は逞しく成長していったに違いないのだ。

その少年の希望も未来も夢も、踏み躙った奴等が憎い。
許せない。

彼が、悪事を強要され、それを受け容れなかったことが原因となり少年への虐待や暴行が始まり、エスカレートした果ての結末のようである。

大自然の中で育った少年の身体には、美しく逞しい正義の心も育まれていたのだ。

それが、嬉しく、またいっそう哀しい。

たとえ、恐怖に怯え、泣き叫んで哀願したとしても、なんら恥じる事などない。

君が敗けたのではない。

この卑劣な暴力が巻き起こした惨事に敗者がいるとすれば、それは君を護る責任のあった大人達だ。

こんな形で、死ななければならなかった君に、安らかになどという言葉を贈るのは残酷な話だと思うけれど、それでも私達はこう言うしかないのだ。

許してください。

どうか、安らかに眠って下さい。

                                                                      合掌。