夏の終わる頃 | 高田龍の《夢の途中》

高田龍の《夢の途中》

気がついたら、72歳に成ってました。
今までずいぶんたくさんのことを書いて来ました。
あと何年生きられるのか判りませんが、書き続ける事が生存確認でも有りますし生存証明でもあります。
宜しくお願い致します。

一週間前を思うと信じられない涼しさは、
肌寒いほどである。
毎年、この頃になると意味もなく淋しさが胸に迫るようになる。
もの悲しい季節とでも云うのだろうか。

紅葉の季節は、やがて来る冬の訪れを前につかの間の安らぎを与えてくれる。

だから、もの悲しさにも円やかさが有る。

冬は、忍耐を教えてくれる。

打ちのめされる寒さも、心折られる北風にも、やがて来る春を待つ希望が有る。
この季節を挫けずに、乗り越えた先に春は必ず来るのだと云う、アグレッシブな思いを与えてくれる。
希望も夢も与えてくれる。

あくまでも私の私観であることを言っておきたいのだが、夏の好きな私は、夏の終わりが嫌いだ。
冒頭に書いた通り、言いようのない淋しさが胸の中に拡がるのだ。

そんなセンチメンタルな思いの私の心に、闘争心を惹起させるような出来事が、耳に入って来た。

盲導犬を刺した奴がいる。

被災地にある鎮魂の為の賽銭箱を何度も盗んだ奴。

汚い言葉を許して頂くことにして。

『糞ったれ、ボケ、カス、お前ら人間の屑だ、世の中なんでも有りじゃねえぞ!たとえ警察に捕まらなくても、お天道様から逃げられねえぞ!蛆虫野郎!』

失礼致しました。

蛆虫さんにも、申し訳有りませんでした。