おはようございます。
ろんでおじゃります
友人のケイ君の話なんですけど、
彼の友達が駒沢大学にいらっしゃるそうです。
そこの古典の先生の一人称が「マロ」らしいです
マロ「まろの授業では源氏物語を扱うのでおじゃる!」
こんな感じ
最初の3回まではこの調子で笑いを禁じ得ないそうです。
でも4回5回になるとさすがになれてくるそう。
はたからみたらとてつもなくキモイ集団ですよね。
ところで今日は合宿です。
今は電車内なんですけど、国分寺いくために萩山で乗り換えたのね。
先頭車両にいこうとおもって一番前に行ったら
反対方向に進み始めやがったよ。
なにこれ
もうね、泣きっ面に蜂ですよ。
さてさて
今日書きたい内容は、やさしさの精神病理の感想ですね。
この本は僕が受験生の時にやった評論で、最近の若者のやさしさは今までのやさしさとは違うってところをテーマにしていますね。
現代のやさしさとはなにか、っていうのをこの筆者は何人かの患者を例にして分析していました。
例えば今の子供の感覚では、老人には席を譲らないことがやさしさであったり、
親からはお小遣いを貰うことがやさしさだったり、悩みを相談しないことがやさしさだったり。
妊娠してしまった女の子と結婚してあげるのがやさしさだったり。。。
まぁ、病んでいますね(笑)
この日本社会っていうのは(笑)
うーん
なんだろう
感想かぁ
僕はこの本を読んで、なんていうか、本当のやさしさってなんなんだろうってことを考えていました。
それは僕自信の最大の課題でもあるのです。
中学生の時から、やさしさとはなにかって考えてきて、それが自分を満足させるだけのものであるならば必要ないとかんがえていました。
でも浪人してから、たとえそのやさしさが自分を満足する為に行われていたとしても、それで誰かが喜んでくれたり、感謝してくれたりするのならば、自己満でもおこなっていったほうがいいと、
そういう風に思っていったのですね。
やさしさにはいろいろな形があって、その中の一つに、
叱ることのやさしさ
叱るっていうか、
こうした方がいいんじゃないかっていうお節介をやくことだと思うんですけど
最近のそれはただの自己満足なだけでした。
どういうことか
それをしてどうする、ってことです。
気持ちが伝わらなかったことで、
あいつは俺の「やさしさ」を無下にしているとイラついていること
それは自己満足に他ならないのです。
つうか満足もしていない。
それがいつか分かるようになるだろうとか、そういう希望的観測ではなく、
それを今わかってもらうことに注力しないと、
僕は本当にただのだるい人です。
そこで本当にやさしくできなくてなにがやさしいひとなんですかね。
僕には、僕と携わるすべての人にいい影響をあたえ続けたいという願望があります。
なぜそういう願望が生じるのかは、すこし長くなるのではしょりますが、
つまり、“そういう”人間なのです。
でもそれは、伝え方を間違えると達成することが不可能なのです。
伝え方を間違えていても理解してくれる人を頭がいい人、わかってくれるいい人として済ませている。
わからない人をあほだとして見下している。
それは単純に、自分にとって“都合の”いい人なだけなのですね。
伝え方の問題は、正直高校3年生の時から達成しなくてはいけない問題だと言いながら、今まで改善されなかったところです。かつさnごめんなさい(笑)
僕はいまメンバーの一員として活動しています。
その中で、僕がどういう種のやさしさを発揮していかなければならないのか、
日常生活の中で、どういう種のやさしさを発揮していかなければならないのか、
僕はこの本を通じて、従来のやさしさというものではなく、現代のやさしさというものに焦点を当て続けなければならないのかもしれませんね。
とりあえずそれが形になったらまた更新します。
やさしい人になりたいと思う人はもうすでにやさしい人だって、彼は言いました。
そういってもられる人になりたいですね。
さて、次の本でも読みますか!