旧石鎚村中村集落内を通り抜けて、山上に続く道を上がっていくと、谷ヶ内という集落跡がある。初めて中村集落へ行ったとき、そこに暮らす曽我部M氏に谷ヶ内集落に行く道を尋ねた。谷に沿ってある道を行けば谷ヶ内集落跡に行ける、と指さしながら教えてくれた。
後日、天気の良い日を選んで行った。
諏訪神社前にある駐車場に車を駐めて、そこからは歩いて行かなければならない。
中村集落までの山道は、手入れされていてきれいだった。
曽我部氏が住んでいる所より上にある道は山肌を横切っていく道で、道上から土砂が崩れ落ちてきていたり道の縁が崩れていたりと、状態は良くなかった。
谷ヶ内集落は人が住まなくなって久しい。人が利用しなくなると道は獣道と化し、辺りは猪がほじくり返し、大雨などで上から土砂が崩れ落ちてきて道上を覆い、どこが道なのかわからないところもあった。
2012年3月のことだ。
中村集落の一番上にある曽我部M氏宅前を通る道は、家の庭でもあるような感じだった。その兼用のような場所を通り抜けて行った。初めて訪れる場所で、いろいろな物が新鮮で目移りする。
周りの景色を見ながらも足下にも気をつけて、写真撮りながらゆっくりと歩いていったた。
10分もしないうちに鉄製の索道が見えてきた。
比較的新しい索道だ。
中村に上る上り口の所に、索道の起点があった。
この索道は二代目の索道だそうで昭和の48年頃に架け替えられた。初代は昭和の33年に町の補助を受けて架設されたという。
高低差は250m程で長さは800mほどある。
索道を動かすためには何人かの人手が必要で、山から人が減っていき人出が足らなくなり、2007年頃についに使用出来なったという。
索道がある所から雪が残る石鎚山が見える。
索道の上にコンクリート製の水を貯めた池のようなものがあった。
初めてこの水槽を見たときは、防火用かと思った。
初代の索道は、この水を索道の荷台の水タンクに入れてその重みで下の荷物をここまであげていたという。
発動機が索道の横に転がっていた。
二代目の索道は、この発動機の力で索道を動かしていたようだ。
索道からさらに山奥に向かって荒れた道が続く。
谷ヶ内集落跡に行く道は人が通らなくなり放置され、道上から土砂などが崩れ落ちてきて道は傷んでいる。
今は猿や猪などの獣道と化しているようだ。
ジュースの空き缶が捨てられていた。「えひめみかんジュース」
懐かしいデザインだ。
谷奥に向かって行く。
足下に気をとられながら歩いて行き、何気なくふと顔をあげ、前方を見た途端、向こうの方に並んで立つ石造物が目に入った。六地蔵だと直感。
六地蔵はまだまだ先にあると思っていたし、集落に着いても少しは探すだろうと思っていた。
簡単に出会えることが出来、てうれしくて疲れを忘れた。
谷ヶ内集落の入り口あたりに六地蔵があることは知っていた。
集落の入り口あたりに着いたようだ。
六地蔵はお墓でよく見かけるものだが、石鎚村では集落の入り口に在るところも多いという。
道脇の斜面に石垣を築き、上に石板を敷き六地蔵が置かれている。
土砂や倒木などから守るため六地蔵の頭上にも細長い石の板が置いてあった。
しかしながら、今はここを訪れる人もなく手入れはされず、山上から崩れ落ちてくる土砂や倒木などで、押しつぶされそうだ。
六地蔵がある谷ヶ内集落の入り口あたりは、間伐もされてなくて日当たりも十分でないためか、下草はあまり生えていない
土砂が流れるように落ちてきて、道は消えかけで地面もデコボコが多く荒れている。
ここから上や下の方にも、道は続いているようだが、前に見えるまっすぐな道をとりあえず行ってみる。
奥の方へと入って行くと、道沿いにある石垣も奥に向かって長く続いている。
石垣は上の方にも下の方にもあり、ながく続いてあるようだ。なだらかな道が続いている。
今は一面の植林で見通しは悪いが、この斜面一帯に昔は畑が広がっていたのだろう。
昭和45年頃の谷ヶ内集落 曽我部正喜撮影
石垣の上にはなだらかな平坦地が広がり、石が四角い形でピラミッドのように積まれている。
高さは1m足らずだろうか。
ここにかつては家があり、石積みの上には神様でも祀っていたのだろうか?
途中、山の上へ上がっていく石段道があり上の方にいってみる。
石段道の横に、硬くて重そうな大石を丁寧に並べ積み上げ造られた排水用の溝が、山上から下に向かって伸びている。
ここはもう集落の一番上あたりだろうか。
ここから上の方には石垣群は見あたらないみたいだ。
平らな広い土地にかなり大きな石がある。
高さ60~70cm長さは1m位だろうか。
明治時代、谷ヶ内に住むいくつかの家族は開拓団の一員として北海道へ行った。
空家になった家は、他の集落から人がやって来て、耕作しながら住み始めたという。
昭和59年発行の伊東鶴一著 『山家の思い出』 によると、5軒程の家が谷ヶ内集落にはあったようだ。
戦時中、隣村の大保木(おおふき)村の人たちが出兵するため松山に行くとき、多くの人が私が歩いて谷ヶ内まで来た同じ道を歩き、天ヶ峠を越え、桜三里を通り行った、と曽我部M氏が話してくれた。
当時のこの石鎚山系の山間部には、道は網の目のようにたくさんあったようだ。
車社会の現在、車が通らない道や人が徒歩でしか通れない沢山の古道は役目を終え、多くが消たり又消え去ろうとしている。
谷ヶ内集落下方にある中村集落は平家の落人集落で、800年以上も前から人が来て暮らし始めた歴史ある集落だ、と曽我部M氏はいう。
山間の生活が自給自足だった時代、谷ヶ内に生きた人たちは、急峻な山肌に長い石垣を上下に幾重にも築き張りめぐらし、大石を一つ一つ積み上げて頑丈な排水設備などを整え、広大な畑作地帯を築いている。
谷ヶ内集落はいつ頃人が来て住み始めたのだろうか?