『鬼滅の刃』について思うこと | 威風堂々

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幸福の科学の信者たつとらのお笑い脳が抑えきれないブログ。

こここここんにちは星

 

たつとらです龍トラ

 

 

 

先日『鬼滅の刃』柱稽古編最終話を見終え、

 

無限城編が3部作の映画化ということで

 

「ぎぇえええええええええポーンってなってるたつとらです龍トラ

 

 

 

原作を読んだのでもう結末は知っているのですが、

 

やぱアニメのクオリティとストーリー、キャラのクオリティが高いのでついつい見ちゃいますねにっこり

 

 

 

ちなみに善逸(CV:下野紘)推しです昇天

 

しもんぬの雄叫びあっての善逸。

 

 

 

 

『鬼滅の刃』は、ストーリーも秀逸ですが、

 

やはりキャラクターづくりが相当うまくて、

 

それぞれの生い立ち、バックグラウンドがしっかり作りこまれていて、

 

それがキャラの魅力を引き出し、読者・視聴者を夢中にさせていると思います。

 

 

 

また、シリアスシーンの中に、

 

ホッと一息するシーン、ギャグシーンがバランスよく入っていて、

 

「うまいなぁ」と思います。

 

 

 

バトル漫画で、やや過激なシーンはあれど、

 

仲間や家族を思いやる心や、自分の心の弱さと戦うこと、

 

悪と見えるものにも事情があり、背景があり、人間として思いやる心が大切なこと等、

 

メッセージ性もあって、

 

普通に見たら、とても良い作品ですよね。

 

 

 

「鬼退治」自体は古来、日本でも行われてきたことで、

 

源頼光はじめ、英雄もいて、

 

「悪は成敗」というのは良いと思うのですが、、、

 

 

 

 

 

 

結局、

 

「切る」とか「殴る」とか物理的攻撃のあれこれから抜け出せてないのって、

 

果たして本当に「強い」のか?

 

ってところが、

 

天上界の神・高級霊が、数多のバトル漫画やエンタメに問いたいところなのではないかと思います。

 

 

 

己の肉体を鍛えることは大事です。

 

ただ、それで強くなって、誰かを打ち負かす力を手に入れて、客観的事実として「誰にも負けない」段階になったとしても、

 

そこから先があるのかないのかでバトル系エンタメの「格」というのが変わってくると思うんです。

 

 

 

結論から申し上げると、

 

釈尊が最強なんですよ真顔真顔真顔

 

 

 

99人あるいは999人を殺したと言われるアングリマーラ

 

彼も、はっきり言って、「鬼」でしたよ。

 

自分の欲に負けて、人を殺すことしか考えられなくなって、

 

もう姿や顔は「鬼」そのものだったと思いますよ。

 

そんなアングリマーラさんを

 

 

 

「私は止まっている。動いているのはお前の方だ」

 

 

 

の一言で、無力化させ、

 

さらに「鬼」を弟子にさえしてしまう仏陀

 

 

 

さらには、

 

アングリマーラをよく導き、

 

最後には彼の「罪」を、「生まれてこのかた人を殺めたことがない」レベルにまで浄化し、

 

菩薩へと変えてしまう仏陀。

 

 

 

普通にありえんっしょ無気力無気力無気力

 

 

 

あと、仏陀は蛇や象をけしかけられても、

 

その動物を大人しくさせて、「攻撃させない」ようにしていますね。

 

 

 

相手を攻撃して追い払うのでもなく、ましてやボッコボコにしてしまうのでもない。

 

相手の毒気を抜き、相手の仏性を引き出し、「攻撃させない」状態にして、

 

自分に従わせているのです。

 

 

 

私は、この仏陀の姿に、

 

「鬼退治」の本質があると思うのです。

 

 

 

炭治郎も、源頼光も立派ですが、

 

「鬼を切る、倒す」という行為になってしまうのは、

 

結局、それ以上の解決方法ができないから。

 

 

 

色んなバトル漫画を見るにつけ、

 

登場人物はみんな「悪を倒そう」と純粋に思い、鍛錬し、

 

相手を必死に攻撃しますが、

 

結局、「攻撃が効くか効かないか」に終始しており、

 

それ以上の「悟り」がない。

 

※源頼光さんは仏への信仰があり、「仏に代わっての鬼退治」という信念があると思われ、単なるチャンチャンバラバラとは違うと思われますが。

 

 

 

総裁先生は何かのご法話で「『ONE PIECE』なども妖怪に見えなくもない」(うろ覚え)的なことをちらっと仰られてたと思うのですが、

 

仏陀から見れば、「肉体的強さ、または特殊能力でチャンチャンバラバラする系のもの」は全部、妖怪同士があーだこーだやってるようにしか見えないでしょうね。

 

※ちなみにたつとらは『鬼滅の刃』も『ONE PIECE』も好きですし、エンタメとして秀逸な作品であると評価しています。その上で、の話です。

 

 

 

要するに、悟りを極めると、

 

もう相手の心も読めて、相手のバックグラウンドも霊視できて、

 

相手がなぜ迷いの中にあるのかを一瞬で見破れて、

 

いつでも相手の琴線に触れる一言も言えるし、

 

霊能力もあるから相手の動きを止めたり、相手の攻撃を受けないことなどは造作もないことで、

 

必死になって刀や拳をふるって「自分を守ろう」とする必要もなければ

 

「殺される前に殺す」必要もないわけで。

 

 

 

 

要するに、

 

「鬼を倒しました」「めでたしめでたし」で終わって、

 

悟りの深さが無いことに、

 

『鬼滅の刃』の足りない部分があるわけで。

 

 

 

死後の世界を少し描いており、

 

「鬼や悪さをした者は地獄へ行く」というのが描かれてはいるのですが、

 

 

 

はっきり言おう。

 

 

 

地獄ってあんななま優しいもんじゃないと思う真顔真顔真顔

 

 

 

地獄に堕ちた鬼たち(反省していない者)、

 

めちゃくちゃ筆舌に尽くしがたいほど地獄で悲惨な目に遭っていると思う。

 

きむつじむざんは特に。

 

 

 

人間の命がなぜ尊いか、というところで、「仏の子だから」という視点が抜けているから、

 

仏の子の命を奪う罪がどれだけ重いかということに対して描き切れていないし、

 

究極、ふるう刀に「鬼を倒す」という気持ちは籠っていても、

 

「仏神に代わって悪を降す」という聖なる使命、というのが抜けている。

 

 

 

「仏」「信仰」「悟り」が抜けているからこそ、

 

人の心を打つストーリーやメッセージはあっても、

 

見る人への影響が結局「人を殺す鬼は悪い。殺していい」になって、

 

子供たちが鬼滅の刃ごっこで平気で友達を切る(まねをする)し、

 

「敵をどんどん倒せる特別な(物理的)強さを持った人間」に憧れ持っちゃうし、

 

「敵を倒す」ことに喝采してしまうんだと思う。

 

 

 

ただ、仏の造られた世界に本当は「敵」などいないし、

 

敵を創り出しているのは自分自身の心。

 

敵を創り出し、それをなんとかして(殺してでも)倒そうとする心が、

 

ロシア-ウクライナ戦争だったり、イスラエルやイスラム原理主義の争いを生み出している。

 

 

 

エンタメとして見るのはいいけれど、

 

ちゃんとそういう部分を分析・理解して見ないと、

 

「炭治郎かっこいい!柱かっこいい!敵をどんどんやっつけてすごい!」

「私/俺も悪い奴を倒す力が欲しい!」

「お前は鬼(妖怪)だ、悪魔だ。殺す」

 

っていう思考になっちゃうんじゃないかと思う。

 

 

 

もう一度、

 

知っておいてほしい。

 

 

 

人類最強は仏陀。

 

釈尊。

 

悟りの力で相手の「悪」をとどめ、

 

相手を弟子にして修行させて、魂を清め、罪を浄化できる方。

 

心の中に「敵」を作らず、ただ、慈悲だけがある方。

 

 

 

映画『宇宙の法』のアルファ様やエローヒム様も無双でしたよね。

 

相手のやった「悪いこと」を時間を戻したりして「なかったこと」にしてしまえるんです。

 

 

 

究極の仏神(一番強い方)は物理攻撃しないんです。

 

しなくてもいつでも勝てるから。

 

 

 

物理攻撃するのは、悟りの足りない弟子たち。

 

信仰はあっても、悟りが足りないから「その光で一瞬にして救う」なんてことができない。

 

ゆえに、攻撃して相手を弱らせる、あるいはやっつけてしまって殺して地獄に行かせるしかない。

 

これ、結局仏任せですねネガティブ

 

「神様仏様、あとは地獄で何とかして!反省させちゃって!」

 

 

 

 

そんなことを、『鬼滅の刃』を見てて思った。

 

とりあえず柱稽古編終わって寂しいので、

 

また1話から見直すか…真顔

 

 

 

 

 

ちなみに『チェンソーマン』なんかは論外ですね。

 

なんで流行ったのか分からんし、

 

作者の方、だいぶいっちゃってる方だなって思います。

 

ああいう作品が描けるっていうのは、ちょっと人間逸脱してますね。

 

あれを流行らせた「誰か」がいると思うんですが、

 

「どんなに売れていても、子供に著しく悪影響を及ぼすものは映像化しない」というモラルがないんかいい年した大人が真顔真顔真顔

 

 

 

『進撃の巨人』はまだ社会性があり、

 

世界の問題に対する訴えが垣間見れて、

 

あれはあれで大きな作品だったと思います。

 

あと、北欧神話や巨人にスポットを当てたことは、良かったかなと思っています。

 

ただ、「世界の創造」の部分に神の愛がないことは作品全体に暗さを落としていますね。

(それこそが「進撃の巨人」の色であり、作品の哀愁でもありますが)

 

 

 

『呪術廻戦』は、多分マンガだけだとそこまで流行らなかったんですが、

 

アニメ化したことで絵がキレイになり、キャラの魅力が増したことで一気に流行ったんかなって思います。

 

ちなみにたつとらもアニメでハマってしまいました。そして原作読んでみたら「絵が全然違うやん…」って思いました。

 

今は熱も冷め、「エンタメの分析」として視聴するに留めています。お兄ちゃん(脹相)推しです。

 

内容について言えば、

 

呪いを祓うのは「より強い呪い」ではなく、「悟りの光」です。間違ってます。

 

呪術師が「負の力」で戦っているならば、これも妖怪同士の戦いです。

 

ただ、人間の念が集まるところに呪いは発生するというのは正解ですが。

 

なんにせよ、妖怪大戦争なので、特に悟りはありません。

 

 

 

 

 

他にもバトル漫画だけでなく色々流行っていますが、

 

やはり「創造神」「仏神」「悟り」の存在が描けないというのは悲しいことです。

 

たまに「神様」が出てきても、気まぐれな人物、ひどいことを平気でする人物、

 

あるいは普通のおじいちゃんだったり無邪気な子供だったり、

 

本物の「神」を描けているものはありません。(多分)

 

 

 

多くの人に影響を与える力が強いエンタメだからこそ、

 

真なる世界観のもと、主の愛や主の教えが反映されたものが流行り、

 

良い影響を人々に与えていってほしいと思います。

 

 

 

 

 

 

まとまってないけど

 

 

おわる。

 

 

※あくまでたつとらの現在の意見です。

 

 

 

 

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