夕暮れ時、大手町。
織田誠一は、
他の何千もの会社員と同じように、
疲れ切った顔でオフィスビルから出てきた。
安物のスーツを着こなし、
手には使い古されたビジネスバッグ。
彼が数日前、人間を冷蔵庫に詰めて
海に遺棄した男だとは、
誰も想像できないだろう。
織田が地下鉄の駅へと向かう
雑踏に紛れた瞬間、
彼の左側から、
黒いコートを着た女――松井玲奈が、
まるで最初からそこにいたかのように、
彼と肩を並べて歩いていた。
織田は、ふと横を向いた玲奈の、
美しさに一瞬だけ目を奪われた。
その刹那、
すれ違い様に玲奈の左手が
コートの裾で閃いた。
織田の胸に、
まるで氷の針が突き刺さるような
鋭い衝撃が走る。
息を呑む間もなかった。
コートの生地越しに、左胸の奥深く、
的確に心臓を貫いた
アイスピックの冷たい感触。
玲奈は表情一つ変えず、
そのまま雑踏の中へと歩みを進める。
織田は数歩よろめき、
自分の胸元を押さえた。
指の間から溢れ出す熱いものと、
急速に遠のいていく意識。
何が起きたのか理解する前に、
彼の身体は力なくアスファルトに
崩れ落ちた。
周囲の人間が悲鳴を上げ、
騒然となる中、
玲奈はすでに
人混みの中に姿を消していた。
彼女の左手の裾に隠されたアイスピックは、
ターゲットの命を一撃で確実に奪うための、
死神の指先だった。
深夜の湾岸エリア。
蓑田和夫は、
人気のない倉庫街の暗がりで、
何者かと電話で話していた。
「W」からの新たな指示だろうか、
その声は緊張感を帯びている。
「ああ、わかってる。次のブツは…」
彼がそう言いかけた瞬間、
背後のコンテナの影から、
黒豹のような影が躍り出た。
平手友梨奈だ。
蓑田は咄嗟に身を翻し、
懐からナイフを引き抜こうとするが、
友梨奈の方が数段速い。
彼女の手には、
月光を鈍く反射する
サバイバルナイフが握られている。
「誰だ、てめえ!」
蓑田の恫喝は、
友梨奈の鋭い蹴りによって途中で途切れた。
鳩尾に入った一撃に、
蓑田はうめき声を上げて後ずさる。
友梨奈は追撃の手を緩めない。
ナイフを持った右手を囮に、
左の掌底を蓑田の顎に叩き込む。
一瞬、蓑田の意識が飛んだ。
その隙を逃さず、友梨奈は身を沈め、
低い姿勢から駆け上がり様に、
蓑田の首筋にナイフを深々と突き立てた。
「がっ…!」
蓑田は自分の首から噴き出す熱い血潮に手を当て、
信じられないという表情で友梨奈を見上げた。
「平手友梨奈・・・おぼえておいて
地獄でも何度戦っても勝てないことを
わからせてあげるから。」
友梨奈の瞳は、
凍てつく夜の海のように冷たかった。
彼女は一目もくれず、
血振りを一つしてナイフをフォルダーに納めると、
静かに闇へと消えた。
邪魔者は排除する。それが彼女の戦場での鉄則だった。
福本隆也は、三人の中では最も粗暴で、
賭け事が好きな男だった。
その夜も、違法カジノの薄暗いVIPルームで
ポーカーに興じていた。
勝ちが込んでいるのか、
下品な笑い声を上げている。
部屋の外、廊下の隅で、
北村匠は杖を片手に静かにその時を待っていた。
彼の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
ドジな性格は変わらないが、
その瞳には確かな覚悟が宿っていた。
やがて、トイレに立つためか、
福本が一人で部屋から出てきた。
千鳥足で、上機嫌に鼻歌を歌っている。
匠は杖を構え、
福本が目の前を通り過ぎようとした瞬間、
右足の靴――
そのつま先に仕込まれた単発銃引き金を引いた。
「パン!」という乾いた音と共に、
福本の太腿から血飛沫が上がる。
「ぐわぁっ! な、何だぁっ!?」
福本は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
匠はよろめく福本に駆け寄り、
その混乱した顔を見下ろした。
「お前が…お前たちがやったこと、
決して許されると思うな!」
震える声だったが、
そこには強い怒りが込められていた。
福本が痛みと恐怖で顔を歪ませ、
何かを叫ぼうとした瞬間、
匠は杖の先端に仕込まれた単発銃を、
福本の眉間に寸分の狂いなく押し当てた。
「これで…終わりだ」
引き金が引かれ、
短い銃声が廊下に響いた。
都内高級ホテル、その最上階ボールルーム。
政財界の大物が集う、
端本隆太路主催のチャリティーパーティーは、
華やかさと欺瞞に満ちていた。
白石麻衣は、
有名企業の社長秘書という偽りの肩書で、
その場に溶け込んでいた。
優雅なロングドレスを身にまとい、
完璧な笑顔と洗練された会話術で、
誰からも疑われることなく端本の近くへと進んでいく。
端本隆太路は、上機嫌で取り巻きに囲まれ、
グラスを片手に高笑いをしていた。
その傲慢な顔に、麻衣は内心の嫌悪を押し殺し、
計算され尽くしたタイミングで彼に声をかけた。
「端本先生、今宵は素晴らしい
パーティーでございますわね」
「おお、君は…
ああ、〇〇社長の秘書の…美しいな、今夜も」
下卑た視線が麻衣の全身を舐めるように動く。
麻衣は表情を変えず、微笑みを深めた。
「光栄ですわ。先生、よろしければ、
この国の未来のために、
一杯いかがでしょうか?」
麻衣がシャンパングラスを差し出すと、
端本は満悦の表情で自分のグラスを掲げた。
「はっはっは、
未来のため、か。いいだろう!」
カチン、とグラスが軽やかな音を立てて合わさる。
その瞬間、
麻衣の右手の小指に着けられた、
小ぶりだが美しい装飾の指輪――
その石の下に巧妙に隠された
極小の毒針が、
端本の手首の内側、
脈打つ血管のすぐそばの皮膚に、
ごく僅かに触れた。痛みは、ない。
「先生のご活躍を、
心よりお祈り申し上げておりますわ」
麻衣は優雅に一礼し、
人混みの中へと紛れていく。
端本は、麻衣の残した芳香と、
手に入れたかのような錯覚に酔いしれていた。
数分後、スピーチの壇上に立とうとした端本は、
突然胸を押さえて苦悶の表情を浮かべ、
そのまま崩れ落ちた。
即効性の心臓毒。
医師が駆けつける間もなく、
彼の心臓は永遠にその動きを止めた。
麻衣は、会場の混乱を背に、
誰にも気づかれることなくパーティーを後にした。
夜風が、火照った頬を優しく撫でていく。
指輪の石が、街の灯りを反射して、冷たく煌めいていた。
指輪に仕込まれた毒針が
端本隆太路の命を奪った後、
パーティー会場の喧騒を背に白石麻衣は静かに
夜の街へと溶け込んだ。