夜の7時を少し過ぎた頃、
咲月は夕食を終え、
自室のベッドに仰向けに寝転がっていた。
大学の課題のプリントが数枚、
畳んだ毛布の上に無造作に置かれている。
スマートフォンを弄るでもなく、
天井を見つめたまま、
今日の和との短い会話を思い出していた。
(「カフェ、楽しかったんだ……」)
和の嬉しそうな顔が、
まぶたの裏に焼き付いて離れない。
高校時代からずっと一緒だった和。
いつも隣にいて、
何を話しても最初に笑ってくれた和。
そんな和の隣に、今は別の誰かがいる。
その事実が、咲月の胸を締め付けた。
ふと、窓の外に気配を感じて顔を上げた。
通りに面した窓から下を見ると、
見慣れたシルエットが歩いてくるのが見えた。和だ。
咲月の家と和の家は隣同士で、
歩いてほんの1分もかからない距離にある。
咲月は窓を開け、
少し身を乗り出して声をかけた。「和!」
和は突然の声に驚いたように顔を上げた。
咲月の姿を認めると、ぱっと笑顔になった。
「さっちゃんだ!こんばんはー」
いつもの明るい声。
それが、今の咲月には少しだけ悲しく響いた。
「おかえり。さくらさんとのデート、
どうだった?」
平静を装って尋ねたつもりだったけれど、
自分の声が少しだけ震えていることに気づいた。
和は満面の笑みで答えた。
「うん、楽しかったよ!
今日は喫茶店でお茶を飲んだだけなんだけどね」
咲月は、その眩しい笑顔をまっすぐ見ることができなかった。
「へえ……そうなんだ」
精一杯、当たり障りのない返事を返すのがやっとだった。
「でもね、さっちゃん!
今週の土曜日に、さくらさんと映画に行くことになったんだ!」
和はそう言って、
両手を小さく握りしめて、本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔は、咲月の心に突き刺さる刃のようだった。
和の喜びを隣で喜べない自分が、ひどく惨めに思えた。
「……そっか。よかったね」
絞り出すような声で、
咲月はそう答えるのが精一杯だった。
喉の奥が何かで詰まったように苦しい。
笑顔を作ろうとしたけれど、
上手くできたかわからない。
和はまだ下から笑顔で手を振っている。
「うん!また明日、大学でね!」
「……うん、また明日」
咲月は小さく手を振り返した。
和の姿が、玄関のドアの向こうに消える。
咲月は静かに窓を閉めた。
部屋の中には、夜の静けさが重く立ち込めている。
ベッドに再び横たわると、
心臓がドキドキと早鐘を打つ。
好きな人の幸せを隣で祝福できないなんて、
こんなに辛いものなのだと、
咲月は今日改めて思い知った。
夜の闇の中で、咲月の瞳から一筋の涙がこぼれた。
それは、誰にも見られることのない、秘密の涙だった。