夕焼けが空を茜色に染め上げ、
長い影がアスファルトに伸びる頃。
あの水飲み場での騒動も、
今は少し遠い出来事のように感じられた。
いつものように、
井上和と菅原咲月は二人並んで、
家路を急ぐ人々が
行き交う駅へと向かっていた。
咲月の額にはまだうっすらと汗が滲んでいるが、
その表情は部活を終えた充実感と、
和が隣にいる安心感で輝いているように見えた。
駅のホームに滑り込んできた電車は、
帰宅ラッシュにはまだ少し早い時間帯だったが、
それでも座席はほとんど埋まっていた。
ドアが開くと、咲月は「こっち!」と
和の手を軽く引き、
素早く車内を見渡す。
そして、空いている
二人掛けの席を見つけると、
先に乗り込んで
さりげなく隣のスペースを確保した。
「和、どうぞ」
「…ありがとう、咲っちゃん」
促されるままに
和が窓際の席に座ると、
咲月はその隣に腰を下ろす。
ガタン、と音を立てて電車が動き出す。
窓の外を流れていく景色を
ぼんやりと眺める和の横顔を、
咲月は愛おしそうに見つめていた。
和の少しでも近くにいたい、
少しでも楽をさせてあげたい。
そんな咲月の細やかな気遣いを、
和はいつも温かい気持ちで受け止めていた。
電車に揺られること約15分、
五つ目の駅で二人は降り立った。
すっかり日も落ちて、
街灯がぽつぽつと灯り始めた住宅街を、
二人は慣れた足取りで歩き出す。
自然と、咲月が道路側、
和が建物側に立つ。
これはいつからか決まった
二人の定位置だった。
咲月は、もし万が一、
車が歩道に突っ込んできたり、
不審者が現れたりした時に、
自分が盾になって和を守れるように、
と無意識のうちに
この立ち位置を選んでいた。
それは、妹が姉を守るというには
少し過剰かもしれないが、
咲月にとっては
当然の、そして譲れない
「使命」のようなものだった。
「ねえ、和」
自分のスポーツバッグを肩にかけ直し、
咲月が隣を歩く和に問いかける。
「いつも私の部活が終わるの、
グラウンドの隅で待っててくれるけど…
正直、暇じゃない?
本読むのは好きだって知ってるけどさ」
少し申し訳なさそうな響きを含んだ声だった。
和はふわりと微笑んで首を横に振った。
「ううん、そんなことないよ。
静かに好きな本を読めるし、何より…」
少しだけ言い淀んで、頬を微かに染める。
「…何より、咲っちゃんが一生懸命走ってる姿、
生き生きした顔を見てるのが、
私、すごく好きなの。元気をもらえる気がする」
それは和の偽らざる本心だった。
風を切って走る咲月の姿は、
眩しくて、力強くて、
見ているだけで胸が温かくなる。
「そっか…!へへっ」
和の言葉に、咲月の顔がぱあっと輝いた。
単純で、分かりやすい。
そんな咲月の素直さが、
和はたまらなく好きだった。
そんな他愛ない会話をしながら歩いていると、
角のタバコ屋の店先で世間話をしていた
近所のおばさんに見つかった。
「あら、和ちゃんに咲月ちゃん。今帰りかい?」
人懐っこい笑顔で声をかけてくる。
「まあ、今日も二人揃って、
本当に美人さんだねぇ。
こりゃ、いい男が
たくさん寄ってくるんじゃないかい?」
悪気なく、お決まりの冗談を投げかける。
すると、咲月がむっとした表情で即座に答えた。
「おばちゃん、心配ご無用! 和に変な虫は、
この私が絶対に寄せ付けませんから!」
まるで自分の所有物を守るかのように、
きっぱりと宣言する。
「あらあら、頼もしい妹さんだこと」
おばさんはからからと笑う。
「じゃあさ、咲月ちゃんの方に、
かっこいい男の子が
たくさん言い寄ってきたらどうするのさ?」
おばさんの興味津々な視線が
咲月に注がれる。
和も少し気になったのか、
「どうするの?」
と隣の咲月を見上げた。
咲月は一瞬きょとんとした後、
ぷいっとそっぽを向いて言い放った。
「そんなの、ぜーんぶ無視!
だって私、男の子には全然興味ないもん!」
「…さ、咲っちゃん…そんなこと言うと、
また誤解されちゃうよ…」
和が慌てて小声でたしなめる。
以前、クラスメイトの中西アルノにも
似たようなことを言っていたのを
思い出したのだ。
(いいや、誤解なんかじゃない…)
咲月は心の中で呟く。自分のこの気持ちは、
友情なんかじゃない。
他の誰にも向けられない、
たった一人、和だけに
向けられた特別な感情なのだから。
男の子に興味がないのは、
紛れもない事実だった。
そんな二人のやり取りを見て、おばさんは
「はいはい、仲が良いことで」
と笑いながら店の中へ戻っていった。
夕暮れの道を並んで歩く、
クールビューティーな和と、太陽のように輝く咲月。
対照的ながらも調和したその姿は、
道行く人の目を惹きつける。
二人がいるだけで、なんでもない日常の風景が、
少しだけ華やかで、
温かい光に満ちているように感じられる。
それは、彼女たちを知る人々の、
共通の感想だったのかもしれない。