黒い羊ー夕暮れの影ー26(終) | じゅりれなよ永遠に

じゅりれなよ永遠に

じゅりれな・坂道小説書いてます。

 

ある晴れた日の午後、玲奈は気分転換のため、

警視庁の屋上に足を運んでいた。

 

青空が広がり、心地よい風が頬を撫でる。

 

眼下には、大阪の街並みが陽光を浴びて輝いていた。

 

事件から数ヶ月が経ち、

和も少しずつ以前の生活を取り戻しつつある。

 

玲奈の心にも、ようやく平穏が訪れ始めていた。

 

ふと、背後から足音が近づいてくる気配がした。

 

振り返ると、そこに立っていたのは、

やはり平手友梨奈だった。

 

以前、屋上で会った夜とは違い、

今日の友梨奈は、

どこか柔らかい雰囲気を纏っているように見えた。

 

「玲奈さん、こんにちは」

 

穏やかな友梨奈の声に、玲奈は一瞬、言葉を失った。

 

最後に廊下で対峙した時の、

張り詰めた空気とは明らかに違う。

 

任務から解放されたのか、

それとも何か別の理由があるのか。

 

玲奈は警戒心を完全には解かずに、

しかし以前のような敵意もなく、静かに応えた。

 

「…友梨奈。久しぶり」

 

「ええ。少し、風に当たりに来ただけです」

 

友梨奈はそう言って、

玲奈から少し離れた手すりに寄りかかり、

眼下に広がる街並みに視線を向けた。

 

「…和のこと?」

 

玲奈が切り出すと、

友梨奈はゆっくりとこちらを向いた。

 

「……」

友梨奈は答えなかったが、

その瞳が肯定しているように見えた。

 

「あなたが心配しているのは分かっています」

と廊下で言った彼女の言葉を思い出す。

 

「和は元気よ」

 

玲奈は、努めて穏やかな声で続けた。

 

「強い子だからね。

自分の足で、しっかり歩き始めてる。

福祉の勉強も、一生懸命やってるわ」

 

その言葉を聞いた瞬間、

友梨奈の表情が微かに揺らいだのを、

玲奈は見逃さなかった。

 

安堵のような、それでいて一抹の寂しさのような、

複雑な感情がその瞳の奥に

一瞬だけ宿ったように見えた。

 

しかし、すぐにいつものクールな表情に戻る。

 

「…そうですか。それは、よかったです」

 

友梨奈の声は静かだったが、

そこには偽りのない響きがあった。

 

玲奈は、友梨奈という人間が、

やはり単純な冷徹な機械ではなかったのかもしれない、

と感じ始めていた。

 

任務のためとはいえ、和と過ごした時間、

交わした言葉、共有した感情。

 

それらが、友梨奈の中に

全く何も残さなかったわけでは

ないのかもしれない。

 

「私は…」

 

友梨奈が不意に口を開いた。

 

「私のやり方でしか、物事を進められません。

それが、誰かを傷つけることになったとしても…」

 

その声には、弁解ではなく、

諦念のような響きがあった。

 

「でも…」

 

友梨奈は言葉を切り、再び視線を街並みに戻した。

 

「後悔が、ないわけではないんです」

 

その言葉は、玲奈の胸に静かに染み込んだ。

 

後悔。この、感情を表に出すことを

極端に嫌う友梨奈の口から出たその一言は、

玲奈にとって大きな意味を持っていた。

 

友梨奈もまた、公安という組織の中で、

任務という大義名分の下で、見えない何かと戦い、

苦しんでいたのかもしれない。

 

玲奈自身の正義ややり方とは全く違うけれど、

彼女なりの葛藤があったのかもしれない。

 

完全な理解や、ましてや許容には至らない。

 

友梨奈が和にしたことは、

 

決して許されるべきことではない。

 

しかし、玲奈は、友梨奈の冷たい仮面の下にある、

脆さや人間らしさのようなものを、

ほんの少しだけ垣間見た気がした。

 

「友梨奈」玲奈は呼びかけた。

 

友梨奈が再びこちらを向く。

 

「和は、あなたのこと感謝してる、

って言ってたわよ」

 

友梨奈の目が、驚きに見開かれた。

 

「すぐに自分を切り捨ててくれたから、

依存せずに自分の道を見つけられた、って。

…皮肉なもんだけどね」

 

玲奈は少しだけ自嘲気味に付け加えた。

 

友梨奈は何も言わず、ただ玲奈を見つめていた。

 

その表情は読み取れない。

 

しかし、以前のような人を食ったような冷たさとは違う、

何か深い感情がそこにあるように

玲奈には感じられた。

 

やがて、友梨奈はふっと息を吐き、

手すりから身を起こした。

 

「そうですか…」

 

短く呟くと、

 

「では、私はこれで失礼します」と、別れを告げた。

 

「…うん」玲奈も短く応えた。

 

引き止める言葉も、かける言葉も、

見つからなかった。

 

それでいいのかもしれない。

 

二人の道は、もう交わることはないのだろうから。

 

友梨奈は玲奈に軽く会釈すると、

静かに屋上から去っていった。

 

以前、カフェで別れた時や、

廊下で警告した時とは違う、

どこか軽い足取りに見えたのは気のせいだろうか。

 

玲奈は一人、屋上に残り、

友梨奈が消えた方向をしばらく見つめていた。

 

そして、再び眼下の街並みに視線を戻す。

 

空はどこまでも青く、風が心地よい。

 

(彼女を完全に理解することは、

きっとないだろう。許すことも、簡単じゃない。でも…)

 

玲奈は心の中で呟いた。

 

(あの冷たい仮面の下にも、

確かに何かがあった。後悔も、もしかしたら痛みも。

それだけは、分かった気がした)

 

友梨奈との関係は、

玲奈にとって苦い記憶であり続けるだろう。

 

しかし、それもまた、玲奈が刑事として、

一人の人間として生きていく上で、

避けては通れない経験だったのかもしれない。

 

玲奈は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。

 

心の中にあったわだかまりが、

完全ではないにしろ、

少しだけ解けていくのを感じる。

和の未来、そして自分の未来。

 

やるべきことはまだたくさんある。

 

玲奈は、新たな決意を胸に、

陽光きらめく街並みを見つめながら、

屋上を後にした。

 

空には、一筋の飛行機雲が、どこまでも伸びていた。

 

 

FIN