事件解決後、玲奈の日常は一変した。
仕事が終わると、
まっすぐ井上和のマンションへ
向かうのが日課となった。
刑事としての激務に加え、慣れない家事。
疲労は蓄積したが、
玲奈の足は自然と和の家へと向かう。
インターホンを鳴らすと、
以前のように長い間を置かず、
ドアが開くようになった。
和は以前のように
笑顔を見せることはまだなかったが、
玲奈を迎える表情は、
いくらか柔らかくなっていた。
部屋に入ると、玲奈は手際よくキッチンに向かい、
夕食の準備を始める。
冷蔵庫の中身は、
玲奈が定期的に補充する食材で満たされていた。
和は、リビングのソファに座り、
ぼんやりとテレビを見ていることが多い。
玲奈が話しかけても、生返事をする程度で、
以前のように会話が弾むことはなかった。
食事ができても、和はなかなか食卓につこうとしない。
「和ちゃん、できましたよ。何か食べましょう」
玲奈が声をかけても、和は首を横に振るだけだ。
「…お腹、空いてないんです」
和の声は、いつもより小さく、力がない。
「少しだけでもいいんです。
何か口にしないと、体がもちませんよ」
玲奈は根気強く説得するが、
和は頑なに首を横に振る。
初めの数日は、そんな状態が続いた。
玲奈は、無理強いすることをやめ、
和のペースに合わせることにした。
食事は作り続けるが、食べるかどうかは和に任せる。
ただ、いつも食卓には、
温かい料理が用意されている状態を保った。
ある日、玲奈は和の部屋で見慣れない本を見つけた。
表紙には『社会福祉』という文字。
何気なく手に取ると、大学の教科書らしきものだった。
パラパラとページをめくると、線が引かれた箇所や、
付箋が貼られたページが目に付く。
「和ちゃん、大学では福祉を勉強されているんですね」
玲奈は、夕食の支度をしながら、和に話しかけた。
和は、テレビから視線を移し、玲奈の方を見た。
「…ええ、まあ…」
和の返事は、相変わらずそっけない。
しかし、玲奈は諦めなかった。
「福祉を学んでいるなんて、素晴らしいですね。
人の役に立ちたい、そう思って選んだんですか?」
玲奈は、優しく問いかけた。
和は、少し驚いたように目を瞬かせ、
少し間を置いてから、小さな声で答えた。
「…昔から、おばあちゃんの介護を手伝っていて…
少しでも、人の役に立てればって…」
それは、玲奈が初めて聞いた、
事件や友梨奈のこと以外で、
和が自ら語った言葉だった。
玲奈は、その言葉を注意深く受け止めた。
「そうだったんですね。
おばあ様思いの、優しい方なんですね」
玲奈は微笑みかけ、
手にしていた教科書をそっとテーブルに置いた。
「もしよかったら、今度、私が持っている福祉関係の本、
持ってきましょうか?刑事の仕事で、
色々な事情を抱えた人と接することが多いので、
勉強になる本がたくさんあるんです」
玲奈の提案に、和は最初は無関心な表情だった。
しかし、玲奈が真剣に話す様子を見ているうちに、
少しずつ興味を示し始めたようだった。
「…別に、いいです…」
和は、相変わらず素っ気ない口調で言った。
しかし、その声には、以前の拒絶の色は薄れていた。
「そうですか。でも、もし気が変わったら、
いつでも言ってくださいね。
私の本、結構面白いんですよ」
玲奈は、無理強いはせず、そう言って微笑んだ。
そして、夕食の支度に戻った。