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『雨あがり』4

麻耶は景浦和子から取材の申し込みを受けていた。それが今日だった。コラムに載せる記事の打ち合わせである。と同時に最近の精神医学の状況を聞きたいというものであった。記事の打ち合わせは簡単に終わった。和子の取材はここからが本番だった。

「アートセラピーの現状を知りたい」というものであった。麻耶は今までしてきたことや、最近になって体験してきた祖父の集落の絆の話をした。

「ええ、そうしたアートセラピーをすでにやっている精神科医がいると聞いた

ので」景浦和子はもう十分な事前知識を持っているような態度で麻耶に質した。

 麻耶は迂闊な返事はできないと思い、

「知らないわ」と素っ気に返事を返した。

「牧野孝彦という医師だそうなの」

「それについては明日返事をするわ」返事をする前に翌日麻耶は和子から

「見つけたわ。じゃあ」といって電話は切れた。さすがに辣腕といわれているだけに情報も早かった。

 また麻耶の日常といえる勤務が始まった。

麻耶は、男の産休・女の産休として二回分のコラムを景浦和子に送った。その男の産休についての相談が多くなっていた。女は産休をとった後は正規社員に戻れる保証もなく、パートや契約社員として低額で短時間の労働力を供給するか、専業主婦として子離れするまでは就労しない道を選ばなければならなかったからである。

麻耶は幼かった。それは幼いというより哀しいものであった。父や母への憎悪が消えるとともに、それとは逆に失ったものへの敬慕ともとれる感情にとらわれていた。簡単にいえば親離れしていなかったのである。


麻耶はその日は休暇をとっていた。だが家の中での息苦しさに身を置くよりもと、いつものように通勤電車に乗りビジネス街へと向かって自分なりの考えを深めるかのように歩いた。

女の幸せ。祖母の持っていた幸せ、母が持っていた幸せ、それはいかなるものであってもよかった。自分が得ようとする幸せ、そんなことすら具体的に持っていなかったのである。


女の幸。それは結婚、という考えを捨てたのは一年前の30歳の時、それよりも女としての自立と自由をと考えるようになってはいたが、それすらも茫洋とした蜃気楼のようなものであった。いったい、何からの自立なのか、何からの自由なのかさえつかまえてはいなかった。恋人、彼氏といえるほどではないにしろ、松木淳一という統合失調症のかつての友人や、杉本良平という高校・大学と同期だった異性もいた。その彼にしても、

「俺、引っ越しするかもしれないんだ」とある日突然に、前触れもなしにいった。

「なぜ?」彼は麻耶の質問には答えず、

「身寄りのない俺が、これからどうするかってときになって、急に遠い親戚筋にあたるところから、後継ぎの話がきて会社を辞めようか、このまま勤めを続けようかと思っているんだ」と、こんなにも不安定な彼に女の幸せを期待するなんて、と麻耶は結婚を諦めたのであった。

「いったいどこへ引っ込むっていうの」

「山陽の山深いところさ。律令のころからの広い農地。行って見たら農耕、養鶏、酪農どれでも選べるけど、俺は酪農でもと思ってさ、北海道に友達もいるし、そこで二年も修業してからと思っているんだ」

麻耶は祖父の郷里のことを目に浮かべて黙って聞いていた。

「子供を四、五人つくって、土地に根を張ってと――」麻耶はここではっきりと心のなかで良平に別れを告げたのであった。いかに晩婚晩産の時代とはいえ女の幸せを他に依存することの不安定さ不確実さ、そして自分が持つ自立・自由の仮象といえるものの不確実さ、結婚を諦めるしかなかったのである。

 麻耶はいつの間にか通りの見える喫茶店に腰を下ろしていた。

「母さん、嫁いじめもいいかげんにしてくれないか」父が残した最後の言葉だった。それ以来、父に会っていなかった。その言葉の意味さえ理解していなかった。

(以下、『雨上がり』5へ続く)なお、この物語は毎週土曜日に公開します。

(注1)この物語の一部また全部の複製・複写・転載を禁じます。

(注2)この物語の登場人物は架空のもので実在する氏名は無関係です。

第五話 再読の効能


 春はあけぼの、これは清少納言の『枕草子』の書き出しである。我が家も春夏秋冬の季節の変化を十分に堪能できる緑深い環境にある。


 四季折々の空気の香りを、また陽の光の色の移ろいを、野鳥の鳴き声の変化を楽しめる環境にある。それだけに現役時代には感じたこともない、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根の浄化にことさらに気を使うのである


 そうなると、わが読書(再読)は、夏目漱石にはじまり、井伏鱒二・幸田露伴・永井荷風・芥川龍之介・鴨長明や松尾芭蕉の世界へと出かけるのである。


 そこにはグローバル社会と一個人との対立軸が今日的に描かれているからで ある。心の持ち方・考え方を変えていかねば、家族ともコミュニティとも社会

とも絶縁しなければならない無縁社会の崖っ淵に高齢者は立たされているから

である。

 

 さすがにわが心友は、こうしたことに敏感に反応し議論しメールのやり取り

ができるので、より一層の理解得られるのである。有縁の世界にボクは身を置

いておくことができるのである。


 家族のそれぞれの立場を理解し、自我を抑制し、自己本来の人間の本性に向き合い、自己を高めていくことが残された人生の解決課題だろうと思うからである。

 

 奈良から平安、そして鎌倉へと時代の変遷の中で、鴨長明が『方丈記』に示した自己と社会との関わり方に敬意をもって再読を楽しんでこそ、日々是好日な日々が可能なのである。


(注)この文章の一部また全部を複製・複写・転載を禁じます。







第四話 読書 ①初読の効能

 読書好きにとっては、買っておく、積んでおく、読んでおく、といった

「置く」というものがあるという。


 それらの言葉は、揶揄するためのものでなく、そうしたことが必要なのだと

いう教えなのである。古希がきて書棚を見れば、おやっ、という書物に気づく

ことがある。取り出してみると付箋もついてなく、目次を見ると、これは読ん

ではいないな、と読み始める(初読)のである。

 

 そんな一冊が、軸なき国家は滅ぶ『天下不穏』著者:久保紘之、発行:産

経新聞ニュースサービス、発売:扶桑社)である。平成七年(阪神大震災)か

ら十三年までの七年間の我が国の政治についての産経新聞のコラムの抜粋であ

る。


 それを読むとこの十六年間なにも変わっていないということである。未解決

のまま先送りしてきたのである。政治の抱える内政・外交問題、政府の無責任

体質、首相の無能さ、沖縄問題、尖閣問題、竹島問題、核兵器問題、消費税問

題、市民運動家あがりの政治の危うさ、などなど何も変わっていないのであ

る。


 記事のなかでドイツ紙の『(阪神)大震災の際、村山氏は無能ぶりをさらけ

出した。取組が遅すぎた』と厳しい評価を下している、と紹介している。

 

 これなどは、今回の東北大震災と政府首脳との無能さはなんら変わっていな

ことを証明している。


 ということは、選挙民であるわれわれ国民自身が変わってないのである。当時も今もムード選挙に変わりはない、ということでる。 読書の効能は初読にしても再読にしても、こういうものなのである。



 (注)この文章の複製・複写・転載を禁じます。